光陵は一度言われたことを決して忘れませんでしたし、一度見たものは全て覚えることができました。医学の書でも、外(と)つ国の言葉でも軽々と読み解き、使いこなすことができたのです。ええ、並外れた頭の持ち主でした。
誰より本人が一番、そのことを知っておりました。
自分は天から力を託されし者だと、固く信じていたのです。
ふふ、愚かですよねえ。
天は決して何も人に託したりはしないのに。人に何かを託すのは人でしかないのに。そんな当たり前のことがなぜ、わからないんでしょうかね。
ええ、光陵は並外れたお頭を持ちながら、愚かな男でした。
だから、あっさりと人を殺せるのです。命を守る医者でありながら、他者の命を毟(むし)り取る。愚かで、歪な男としか言いようがありませんね。
もう少しわかり易くお話ししましょう。
光陵は形の上では、龍堂の三番目の息子でした。けれど、実際は助手としていいように使われていたに過ぎない。少なくとも、本人はそう思い込んでいたのです。
上の二人は、龍堂と正妻の子です。ゆくゆくは龍堂の仕事を全て引き継ぐ立場におりました。療養所の方は次男が、他の仕事は長男が担うことになっていたようです。そうです。日野家の代が替わろうとも、光陵はそのまま、助手のままでおらねばなりません。
自分より力が劣る義兄たちに一生使われ、蔑まれて生きねばならない。耐え難い屈辱だ。
光陵は、そう言いました。
え? ええ、あたしにそう言ったのです。面と向かってね。
あれは、あたしが、今の竹林の家に越す少し前でした。勝手口からひょっこり入ってきたのです。そして、一言の挨拶もなく「先生が倒れたぞ」と告げました。知っていると、あたしは答えました。
そうなのです。龍堂のことは、既に知っていました。気にはならなかったですね。龍堂なら生き延びるにしろ、死ぬにしろ、考えられる限りの治療を受けられる身です。
あたしが気にすることなんて、一つもありませんでした。向こうも、あたしを気にして、生きているうちに一度会いたいなんて思ったりはしなかったはずです。
「でも、先生」
空の煙管を手にして、平左衛門は首を傾げた。
「龍堂は先生にとって、師のようなお方だったのでしょう」
「ある意味、そうですね。龍堂は母の頼みを受け入れ、あたしに医道の手解きをしてくれたのですから。ふふ」
おゑんは心持ち首を竦め、笑った。
「そのわりには、薄情な物言いだと仰りたいのでしょう」
「いや、そんなことは申しません」
くるり。煙管が平左衛門の手の中で回る。銀色の雁首が鈍く光を弾いた。
「ただ、なぜ薄情なのかは知りたいですな。先生は情に流される方ではないが、恩に報いることは知っておられる。なのに、母上亡き後、後ろ盾になってくれた恩人であり師である人物の見舞いにも行かなかった。それは、どうしてですかな、先生。そこのところを……」
平左衛門が目をすがめる。
「惣名主」
甲三郎が平左衛門の背後から声を掛ける。
「先生には先生の事情がありやす。あまり立ち入るのは、よくねえと思いやすぜ」
おゑんは息を詰めた。「甲三郎さん」と叫びそうになった口を何とか閉じる。
甲三郎は吉原の首代、平左衛門は吉原を束ねる惣名主だ。惣名主が「死ね」と命ずれば、首代は一言「へい」と応じ、自分で自分を始末する。抗うことは一切、許されない。逆らうことも、異を唱えることも許されない。ただ、従うのみだ。
なのに、今、甲三郎は川口屋平左衛門を諫めたのだ。
あり得ない。吉原で越えてはならない柵を、甲三郎は跨ぎ越したのではないか。
「確かにな」
平左衛門が自分の膝を叩いた。
「それはそうだ。夢中なあまり、無遠慮に踏み込み過ぎたな。先生、申し訳ありません。どうか、お気を悪くなさいませんように」
白髪の頭を垂れる。
「あ、いえ、惣名主に頭を下げられたら、かえって居心地が悪くなります。どうぞ、お顔をお上げくださいな。それに……あたしと龍堂の関わりを、もう少し詳しく語らねばならないと、よくわかっておりますからね」
平左衛門が身を起こす。
「なるほど、先生はわかっておられるのですな」
軽く頷いた後、背筋を伸ばした。
「甲三郎」
「へい」
「わしを止めたのはなぜだ」
「え……」
「おまえが、わしの話を遮ったのは初めてだな。ふむ、首代ふぜいが川口屋平左衛門の話に口を挟んだ。あまつさえ、諫めの言葉を口にした」
甲三郎の頬から血の気が引いていく。
「申し訳ありやせん」
額が畳をするほど深く平伏し、甲三郎は詫びた。
「身の程知らずの真似をしやした」
「そうだな。おまえは少し、身の程を知らねばならんな」
「川口屋さん」
おゑんは腰を浮かせた。
「そこまでにしといてもらえませんか。甲三郎さんは、あたしを気遣ってくれたのですよ。その心根に免じて、今日のところは勘弁してくださいな」
「ふむ、そうなのか、甲三郎」
「は……いや、そういうわけでは……。あの、先生が少し話しづらそうに見えたもので、あまり踏み込んではならない話柄なのかと……」
平左衛門がゆっくりと、視線をおゑんに向けた。
「と、甲三郎は申しておりますが、如何なものでしょうな、先生。当たっておりますか」
「ええ、当たっておりますね。多少、話し難くはござんすかねえ。でも、隠し通す気は毛頭ありません。それくらいの覚悟はできておりますよ」
(この章、続く)












