移動せずに世界を知ることのできる国
海外への渡航ができなくなって数ヵ月、イタリアで暮らす夫から、毎日のように自分の作った料理の写メが送られてくる。以前なら、レストランや家族の食卓で出される料理の前に携帯電話をかざすわたしを冷ややかに見ていたのに、長期に及んだ自粛生活の影響で考え方を変えたらしい。
ただ、その写真のほとんどが真っ赤なトマトソースのパスタなのには閉口した。パスタの形状こそ、時にはペンネだったり時にはタリアテッレだったりとさまざまだが、ソースは恐ろしいほど毎度同じなのである。確かに夫は無類のトマトソース好きなのは知っているが、さすがに飽きないのか、と聞いてみると、それはないと即答。先日やっと営業再開した近所の馴染みのレストランへ出かけた夫から「久々にここの美味しい昼食が食べられる」というメッセージとともに送られてきたのが、やはり赤いトマトソースパスタだった。
夫の例は行き過ぎかもしれないが、イタリア人はおおむね食に保守的だ。だいぶ前から和食もブームになりはしたし、街なかの中華料理店がその兆候に目をつけて突然のれんを和食屋に取り換えたりもしたが、それでも全国民に受け入れてもらえているわけではない。特に年配者は味覚に冒険をさせない傾向が強いので、世界各国料理の飲食店はなかなか流行らない。
私も自粛期間中にはたくさん料理をしたが、先日鎌倉に住む友人が三崎で栽培されているというアーティチョークを送ってくれたので、それをローマ風に調理した写真を夫に送ると「そんなものまで栽培しているのか……日本人は何でも食べるんだね……」と褒めてるんだか呆れてるんだかわからぬ感想が戻ってきた。
確かに味覚の寛容性は日本の食文化の特徴かもしれない。外食産業にしたって、イタリア料理ひとつ取っても、トスカーナだ、ピエモンテだ、シチリアだ、と地域まで細分化されているのには驚かされる。インドでもアジアでも、旅行で訪れない限り口にすることのできないような地方料理が、日本に居ながらにして食べられる。東京のような大都市でなくたって、少なくとも中国、インド、イタリア、アメリカ、韓国といった国々の料理は全国どこでも食べられる。
明治時代、文明開化の勢いで一気に導入された西洋文化のひとつが食べ物なわけだが、カツレツやオムレツなど、それまで見たこともなかったはずの洋食に人々は驚くほどの早さで適応した。別にどこかの国の植民地になったわけでもないのに、嗜好だけでここまで異文化の味覚を受け入れてきたのはある意味驚きの現象である。
大陸の国々と違って日本は海に閉ざされた島国だという地理的条件も、もしかすると日本人の他国の文化吸収の積極性を旺盛にしたのかもしれないが、食事だけではなく、テレビでも世界の地域を扱ったさまざまな番組が放映されていて、中にはあたかも一人旅をしているような気持ちにさせてくれるものもある。
移動が容易ではなかった島国のメンタリティが、交通手段が発展した今日日においても、旅をせずに世界を感じられるという日本独特の文化を形成していったのかもしれない。じっと一ヵ所に留まっていても、世界の情報は向こうからどんどん入ってきてくれるわけだから、無駄なエネルギーも費やさずに済むし、何より自分たちの知りたい、必要だと思う情報だけ収集できるのも実に都合がいい。
歴史に記録されたさまざまな感染症の拡大は、そのすべてが人類の移動によってもたらされてきた。そう考えると、日本における新型コロナウイルス感染者の数をここまで抑えられている理由も“ミラクル”とは関係なく、人類学的な見地から立証できそうだ。