「ええ、光陵はお定さん……というより、越冬虫の犠牲になった者の遺体が欲しかったんですよ。これは、あたしの推察にすぎませんけれど、本当は伊野屋のどこか、人目のない場所でお定さんに死んでほしかったんじゃないでしょうか。そうすれば、わざわざ引き取りにいかなくても済んだはずですからね。ところが、甲三郎さんもご存じのように、越冬虫の効き目は人によってまちまち、定まってはいません。数日かけて弱り老いていく者も、唐突に倒れ息を引き取る者もおりましたよね。もしかしたら、まるで効かない者もいたかもしれません。なので、お定さんに越冬虫を飲ませたとしても、いつ、効き目が現れるのか誰にも測れなかった。これも見当ですが……。甲三郎さん。お定さんの履物はあったんでしょうかね。裸足じゃなかったですか」
甲三郎が「あっ」と小さく叫んだ。
「そういやあ、親分が言ってやした。履物が見つからねえのが不思議だって。ええ、お定は裸足だったそうです。けど、先生、どうしてそれを知ってるんで」
「知りはしません。考えただけです。もしかして、お定さんは逃げ出したんじゃないかってね。自分の身体の異変に気が付き、とっさに伊野屋を飛び出したんじゃないかって」
「……それで、あの場所で力尽きた……」
「ええ、自身番に飛び込むつもりだったのか、誰かに助けを求めるつもりだったのか」
あるいは、この家に辿り着こうとしていたのかもしれない。
怖かっただろう。我が身に何が起こったか解せぬまま、死んでいかねばならなかった。どれほどの恐ろしさに苛まれたか。息を引き取る寸前まで、どれほどに苦しまねばならなかったか。
助けられなかった。救えなかった。また一つ、命を取り零してしまった。
「先生、遺体を引き取りたかった事情ってのは何でやす」
甲三郎の声は淡々として、乾いていた。情に濡れていないのだ。
そう、乾きが要る。乾いて、動じない思案が要る。情に心を揺らすのは、全てが終わった後だ。
「腑分(ふわ)け、ですかね」
「腑分け……打ち首になった咎人(とがにん)の五臓六腑(ごぞうろっぷ)を引っ張り出すってやつですか」
「甲三郎さん、どこから仕入れた話ですか。五臓六腑を引っ張り出したりはしませんよ。臓物を一つ一つ、取り出したりはしますけれどね。人の身体がどうなっているか。心の臓や肝の臓、腸(はらわた)、骨、諸々の臓物……どんな風に身体に納まっているのか、どういう作りになっているのか、この目で確かめられれば医者として、この上ない学びになります。光陵からすれば学びではなく益なのでしょうがね」
「先生も……」
「はい。二度ばかり、ありますよ。二人とも女でした。そして、二人とも腑分けをするなら、あたしに身体を預けたいと遺言してくれましてね。それが功を奏したのかどうかわかりませんが、あたしは腑分けの場に立つことを許されたんです。ああ、でも、今はこれは余計な話ですね。戻しましょう。光陵はお定さんを腑分けして、知りたかったんですよ。越冬虫によって人の内側がどう変わるのか、自分の目で確かめたかった」
甲三郎が低く唸った。
「じゃあ、光陵は越冬虫をかなりの量、持ってるんでやすか」
「いえ、そんなに多くはないと思います。むしろ、ごく僅かでしょう。そもそも、越冬虫そのものがごく限られた量しかないんですからね。そして、その大半を持っているのが、吉原とあたしってわけです」
一度軽く息を吸い、吐いて、おゑんは続けた。
「光陵が越冬虫の秘密をどこまで掴んでいるか、あたしにはわかりません。けれど、吉原で起こった越冬虫絡みの事件については知っているのでしょうよ」
「“役者の治兵衛”の殺しとの関わりもありやすね」
「おそらく」
甲三郎が膝を前に出す。
「先生から調べるように言いつけられた伊野屋の内情でやすが、奉公人や出入りの商人から聞いた話によると、かなり危ねえようでやす」
「商いが上手く回ってないと?」
「へえ。今の主になってから、主本人の商い下手に不運も重なって、どうやら火の車のようで。伊野屋は夏の終わりまでには潰れる、もうもたないと言う者までいやしたよ。奉公人たちの中には他に働き口を探している者もけっこういて、あながち、ただの噂じゃねえようでやす」
「そうですか」
伊野屋を覆っていた暗く重い気配は、先代が死の床についていたからではなく、店そのものが死にかけていたからなのか。
「……だとしたら、越冬虫は喉から手が出るほど欲しいでしょうね」
越冬虫を薬として商いの品にできるなら、伊野屋にとって、この上ない助けになる。店は持ち直すどころか、今までにない隆盛を極めるだろう。
商いの品? 何のための薬になる?
越冬虫はあまりに多くの謎を含んでいる。今はまだ人の手に負える代物ではない。いや、それは飽くまで病や傷のための薬であればだ。毒としてなら、毒薬としてなら……。
使える?
そうだ、越冬虫の毒を取り除いたり、弱めたりするのではなく、逆に強めて斑(むら)なく人を死に追いやれるとすれば、しかも、病死に見せかけて……。
越冬虫という毒薬。日の光の下で堂々と売りさばけるはずもない。けれど、闇なら。闇の中での取引なら、成り立つかもしれない。いや、十分に成り立つだろう。
ずっと想像していた。それが、俄(にわ)かに現のものとなる。
恐ろしい。あまりに恐ろしく、おぞましい。
(この章、続く)












