十三
甲三郎が帰ってきたのは、町木戸が閉まる少し前だった。
夜が深まり、闇がひときわ濃くなる。そんな刻だ。
部屋に招き入れ、火鉢の近くに座るよう促す。火鉢には久々に熾(おき)が燃えていた。今日の夜気は冷えている。春の温かさに慣れた身体には染みる寒さだ。
「こんな刻まで、働かせてしまって申し訳ありませんね」
四半刻ほど前から、小糠雨(こぬかあめ)が降り始めた。甲三郎の衣も髪もしっとりと濡れているようだ。
おゑんの差し出した手拭いを受け取り、甲三郎は僅かに笑んだ。
「先生、あっしは吉原の人間ですぜ。この刻ならまだ宵の口のうちですよ」
「あぁ、そう言われちゃ頷くしかありませんね。夕餉(ゆうげ)はどうされました? お腹は空いちゃいませんか。ちょっとしたものでよければ、拵えますよ」
「えっ、先生が飯を拵えるんで」
おゑんは眉を顰めた。甲三郎は真顔で、口調もふざけたものではなかった。
「なんです? あたしが賄いをするのが、そんなにおかしいですか」
「おかしいというより驚きですよ。へえ、先生が……」
「どうなんです。食べるんですか、食べないんですか」
「先生の手料理なら喜んで……と言いてえとこですが、先刻、屋台の寿司をしこたま食ったところなんで、今日は遠慮しときやす」
おゑんは軽く肩を竦めた。
「ふふん、上手いこと逃げるじゃありませんか。あたしの賄いじゃ怖くて食べられない。そういうことですかね、甲三郎さん」
「あ、いえ、とんでもねえ。いや、正直、ちょっとは怖いかもしれやせんが……」
「まっ、よくそんな生煮えをお言いだこと」
苦笑しながら、茶の用意をする。身体を温める薬茶だ。甲三郎はおゑんの頼みを引き受け、早朝から米沢町と深川元町に出向いていた。
「先生、お伝えすることが二つ、ありやす」
おゑんが湯呑を置くのを待って、甲三郎は声を低くした。とたん、気配が張り詰める。
「米沢町の死人の件、先生のお考えの通りでやした」
一瞬だが息が乱れた。違っていてくれという思いと、もしやという危惧と、二つが綯(な)い交ぜになって胸の内でずっとうねっていた。
「そうですか。お定さん、殺されていましたか」
「へえ。死んだのではなく殺された、でやすね。もっとも、お奉行所は病死として片付けたそうでやすが」
「……でしょうね。傷があるわけでも首を絞められたわけでもない。年寄りが不意の病で亡くなったとするのは、当たり前でしょうね。で、伊野屋さんは知らぬ振りですか?」
「いや、店の奉公人だと申し出て、遺体を引き取りやした」
甲三郎と目が合う。
「遺体はお定さんだと認めたんですね」
「そのようでやす」
お定は若さとは縁の切れた女だった。それでも、老婆と呼ばれるほどの歳でも外見でもなかった。娘たちでは持ち得ない落ち着いた品を具えていた。
「その遺体は相当の年寄りだったのですよね」
「へえ。あっしも直に拝んだわけじゃありやせんが、見た者によると白髪で皺だらけで、歯も何本か抜けていたってことでした。どのくらいの歳に見えたって尋ねたら、六十はとっくに過ぎて、もしかしたら七十過ぎだったんじゃないかと言ってやしたね」
「お定さんは、どう見ても四十過ぎあたりだった……なのに、伊野屋さんは、あっさり引き取った。つまり、遺体がお定さんだとわかったってことになりますね」
甲三郎が頷く。
「そうとしか思えやせんね。先生、この殺し、越冬虫が使われてやすね」
甲三郎も越冬虫によって絶命した女たちを知っている。まだ、うら若い振袖新造が老いさらばえ息を引き取る様を目の当たりにした一人だ。
「十中八九、間違いありませんよ。お定さんは越冬虫で殺されたのです」
唇を噛む。
お定は、先代伊野屋宗兵衛の死に納得していなかった。病死という診断に疑念を抱いていた。そして、主の死に光陵という男が関わっているのではとも疑っていた。
もっと、強く、全力で止めるべきだったのだ。お定がこの家を訪ねてきたとき、引き止めるべきだった。伊野屋に帰らせてはならなかったのだ。
ぬかった。現を甘くみて、しっぺ返しを食らった。
「けど、おかしかありやせんか」
甲三郎が首を傾げる。
「伊野屋はなぜ、お定を引き取ったんでしょうかね。変わり果てた姿になっているんだ。知らぬ振りもできたでしょうに。親分に聞いたところじゃ、お定は伊野屋と繋がりのあるものは一切、身に着けていなかったってことですから、黙っていれば素性が知れぬまま、無縁仏になるはずだったと思いやすぜ。まさか、命を奪った後ろめたさに、せめて葬儀ぐらいはと考えた……なんて、そんなことはねえでしょう」
「ありませんね」
そんな仏心を持っているようなら、人一人、無残に殺しはしない。
「お定さんを引き取らねばならなかった。いえ、どうしても引き取りたかった事情があるのでしょう。伊野屋ではなく光陵に、ね」
「光陵絡みでやすか」
甲三郎の喉元が動いた。唾を呑み込んだのだ。
(この章、続く)












