私と娘は、夫の正妻にとって幽霊に等しい存在だった。病院のベッドに横たわる夫をはさみ、妻と向き合った時、押し込めていた思いが堰を切ったようにあふれ出た──(「読者ノンフィクション傑作選」より)
心不全で倒れた夫
それはこれから起きるかもしれない地震への不安に似ているのではないだろうか。いつか来る、と思いながら日常に追われ、つい忘れそうになった頃、突然襲ってくる。
昨年の11月のこと。26年間、事実婚の関係にあった夫が、日曜日の早朝に我が家で倒れた。心不全だった。幸い病院が近かったために、一命をとりとめることができた。しかしここからすべてが狂い始めたように思う。
夫の病状について、26年間一度として会ったことも話したこともない正妻に連絡をしなければならない。結婚しないまま30歳で娘を出産し、もう56歳。ふたまわりほど年の違う夫は80歳。夫よりひとまわり下の正妻も、70歳くらいのはずである。
私は一度もかけたことのない電話番号を押した。
「あの、突然にすみません。私、中野の黒田です。ご主人が今朝倒れて、緊急搬送されました。○○病院で、電話番号は……」「え! 倒れたってうちの主人が? 中野? なぜそんなところに。とにかく今から向かいます。あなた様は?」「私は黒田です」「くまだ、さん、ですか?」。
その声は明らかに狼狽していた。なぜ? 夫が倒れたことに? なじみのない地名に? それとも私の声に? この名字は、苦々しく思いながらも、彼女の頭のどこかに刻まれていたのではなかったのか――。