「沈没家族」で育った加納土(つち)さん(右)と母の加納穂子(ほこ)さん(左) 撮影:Jun Wajda
東京・中野界隈で、あるシングルマザーがユニークな共同保育を発案したのは26年前。チラシや口コミで子育て未経験の若者たちが集まった。「沈没家族」と名付けられたこの試みを、そこで育った加納土さんが大学の卒業制作でドキュメンタリー映画として撮影・発表し、劇場公開を重ねて反響を呼ぶ。今夏ネット配信もされることに。土さんと母の穂子さんが当時と今について語り合う(構成=篠藤ゆり 撮影=Jun Wajda)

「あなたも、一緒に子育てをしませんか?」

穂子 土(つち)を21歳で産んだ時、土の父親である山くんと親子3人で暮らしていくというイメージが湧かなくて。いろいろな人が関わるなかで育てたいという思いがあって、「共同保育」を考えた。

 僕が生まれたのは1994年。8ヵ月の時、神奈川県の鎌倉から東京の東中野に引っ越したよね。

穂子 山くんとの生活を解消したかったのと、出産で休学していた写真学校に復学したかったから。だけど、土の面倒をみてくれる人がいない。すると友人が、中野界隈だったら子育てを面白がってくれる人がいるかもしれないよって。若い人たちが集まるイベントで「あなたも、一緒に子育てをしませんか?」と書いたチラシを配ったら、けっこう反応があって、子育てに参加してくれる人が集まり始めた。

 当時のチラシが残っているけど、「ハウスにとじこもってファミリーを想い、他者との交流のない生活でコドモを(自分も)見失うのは、まっぴらゴメンです」と書いてある。

穂子 そのチラシを、電信柱にも貼った。

 「共同保育」を思いついたのは、みんば(穂子さんの母で女性史研究家の加納実紀代さん)の影響もけっこうあったのかな。

穂子 私が育った家にはフェミニズムに関する本や雑誌がいっぱいあったから、確かに環境の中で感じるものもあっただろうね。でもそれより、10代後半の頃、奄美大島に遊びに行って複数の大人や子どもが一緒に暮らしているところに滞在したことが大きいかな。風通しがよくて、親にとっても子どもにとってもいいなぁと感じたので、自分もそういうやり方で子育てができないかなと思ったの。