すべては視点の問題でしかない
われわれは言葉によって毎日を生きている。だから言葉については誰もが専門家であり、独自の見解をもっている。
しかしそのことと、言葉についての考察を週刊誌に連載できることとのあいだには大きなへだたりがあって、ここをかるがると超えるのはさすが片岡義男だなあと思う。
日々生きていくなかでふれる新語、珍しい言い回し、日本語に訳せない外国の言葉、いまはもう誰も使わなくなった表現。それらについて感想を書くことは簡単でも、現在を生きる読者の心の中にそれを届けきるのは難しい。「ふーん、だから何?」で終わらない読み物にするには、特別な腕力がいる。
「プチプラ服」や「即レス」といった新しい言葉に抵抗感をもつ人は少なくない。一見、中途半端で不格好なカタカナ語は、しかし独自の意味を乗せてもいる。著者の視線はそこから先へのびていく。
「テレヴィジョン」という英語は、日本語で「テレビ」になる。そのリズムは〈十六分音符ふたつ〉と〈八分音符ひとつ〉、つまり〈八分音符ふたつ〉。そうなる例を、インフラ、エアコン、パンスト、マスコミなどと数え上げていく。
しかし、新語の導入をリズムの問題から論じようとしているわけではなく、話題は「ダブル」がベッドやウィスキーについての言葉でもあり「ダブる」という動詞でもあることに飛び、「オープンする」とは言うのに「オープンやる」とは言えない、ということへと移り、カタカナ語の世界をぐいぐいと泳ぎわたって行ってしまう。腕力はこういうふうに使うのである。
強い力をもった人が、その力を制御し使いこなす動作に見とれる。言葉に正しいも間違っているもなく、すべては視点の問題であり、著者はひとつのエレガントな視点を見せているのだ。もとは『サンデー毎日』連載。