(イラスト・木内達朗)
「もう、いのちを使わせるな」
逃げ続けた人生にも、タラント―使命―は宿る。
角田光代による慟哭の長篇小説『タラント』導入部を特別公開!
「著者プロフィール」
角田光代(かくた・みつよ)
1967年神奈川県生まれ。2005年『対岸の彼女』で直木賞、07年『八日目の蝉』で中央公論文芸賞、11年『ツリーハウス』で伊藤整文学賞、12年には『かなたの子』で泉鏡花文学賞及び『紙の月』で柴田錬三郎賞を、14年『私のなかの彼女』で河合隼雄物語賞、21年『源氏物語』の完全新訳で読売文学賞を受賞。その他の著書に『月と雷』『坂の途中の家』『私はあなたの記憶のなかに』『銀の夜』などがある。
感覚と感情は違う。いっしょにしちゃだめだ。
おなかがすいた。これは感覚。おなかがすいて、かなしい。これが感情。
殴られて痛い。これは感覚。殴られて痛くて、くやしい。これが感情。
それとはべつに、ただのできごとや、ものごとというものもあるな。
川縁(かわべり)に花が咲いている、というようなことだ。それを見て、うつくしいと思うのは感覚で、やすらいだりするのが感情。
空が青い。気持ちがいい。うれしくなる。
思いきり歌う。せいせいする。気持ちが大きくなる。……せいせいするというのは、感情だろうか? いや、感覚なのじゃないかな。
盗みを働く。うまくいく。やったぜと思う。……そうだろうか。ほっとするかもしれない。いやな気持ちになるかもしれない。焦るかもしれない。
そうか、感情は人によって違う。いや、人によってじゃない、同じひとりの人間だって、年齢やそのときの状況によって変わるあいまいなもので、あいまいなものだから、いちばん信用できないんだな。
何も選べなくて、押しつけられたものごとやできごとしかないときに、だから感情はやっかいだ。たとえば学校にいきたいのにいけないとする。そうだ、学校にいきたいのに、すごくすごくいきたいのに、いけない。感覚は、じりじりしたり、いらいらする。感情はといえば、つらい、くやしい、さみしい、かなしい、いやな気持ちばかりだ。だから、信じない。捨てる。じりじりするのはじりじりするだけ。いらいらするのはいらいらするだけ。それなら、ひとつしかないできごとやものごとを受け入れられるかもしれない。少なくとも、かなしんだり苦しんだりはしないのではないか。
でも、ぼくってだれだと考えると、感覚じゃなくて感情なんじゃないかな。一年後、十年後、変わったとしても、花を見てやすらいだり、盗みを働いて苦しいと思う、その部分が、そのときのぼく、そのものなんじゃないかな。