藤子(A)先生は、『婦人公論』1996年12月号(「ドラえもんは君の愛だった」)で大山のぶ代さん、石ノ森章太郎先生と、2002年7月22日号(「孤独と愛と人生と」)では加賀まり子さんと語り合っています。1996年9月に亡くなった藤子・F・不二雄(本名・藤本弘)先生との思い出話から、2002年当時のプライベートまで、肉声を紹介します。
富山県から上京してトキワ荘で描いていたころ
藤子(A)先生は、1934年、富山県氷見郡氷見町(現:氷見市)にある光禅寺の住職の息子として生まれました。のちに高岡市へと引っ越し、転入した高岡市立定塚国民学校で藤子・F・不二雄先生と出会います。
小学校時代から漫画家を志したという二人は、1951年にコンビを結成。1954年には富山県から上京を果たしました。
上京当時、二人はまず両国に二畳の部屋を間借りし、そこで漫画制作を始めたそうです。
「机がだいたい一畳分。あと一畳に僕と藤本くんが二人並んで描くでしょ。そうすると背中が完全に壁にあたってね。六月に上京したからすぐ夏になって、汗だらけになる。窓から土埃が入ってきて、ジャリジャリでね。原稿描いてて、サンドペーパーみたいになって。(笑)」(『婦人公論』1996年12月号)
それからしばらくしたのち、巨匠・手塚治虫先生から入居を持ちかけられた二人は、豊島区のアパート・トキワ荘へ引っ越します。当時のトキワ荘には、手塚先生以外にも、「サイボーグ009」を手掛ける石ノ森章太郎先生や、「天才バカボン」の赤塚不二夫先生ら、著名な若手漫画家が多く暮らしていました。
「そういう意味では、トキワ荘の四畳半は豪華な住まいだったんですよ。当時のアパートは、いまでいえばマンションくらいの高級感があったね。」
「(トキワ荘の仲間とは)本来はライバル同士、ましてや同じアパートに住んでいるから競争意識を抱いて当然なのに、僕らにはまったくなくてね。誰かが売れるとよかったな、自分も頑張らなきゃと、いいほうに思う。」(以上『婦人公論』1996年12月号)
しかし上京して約半年後、世の児童漫画ブームに乗って仕事が急増。オーバーワークがたたり、富山へ帰省した後に1ページも描けなくなった二人は、受けていた7本の仕事のうち5本を落としてしまいます。
「そこで、僕も覚悟を決めて東京に出て行ってとにかくお詫びに回ろうと思ったんですけど、もうどの雑誌社からも総スカンで。絶望的な状況だった。それでも藤本くんはまだ落ち着いていた。あれは、トキワ荘にいたからやれたと思うんですよ。皆、駆け出しで頑張っている。それを見てると『また、やり直せるかも』と。それに二人だったというのも強かった。」(『婦人公論』1996年12月号)