日本がパンダの誘致実現に至るまでには大変な苦労があったそうで――(写真提供:Photo AC)
ちょうど50年前の1972年10月、日中友好の証として「カンカン」「ランラン」2頭のパンダが贈呈されると、日本国内では熱狂的なパンダ・ブームが巻き起こりました。実は中国がパンダの外交的価値に気づいたのは1930年代で、「戦争や革命、経済成長のなかでパンダは政治利用されてきた」と東京女子大学・家永真幸准教授は言います。そうした背景もあって、日本がパンダ誘致実現に至るまでの裏側では、動物園の大変な苦労があったそうで――。

日本の動物園がひそかに重ねてきた努力

実は日本でも1950年代から70年代にかけ、動物園関係者はパンダ誘致を試みていた。

それでも72年以前にはパンダ来日が実現しなかった経緯をたどると、日本で高まっていくパンダへの関心を、中国がいかに外交に利用してきたのかが見えてくる。以下に、日本の動物園がひそかに重ねてきた努力を振り返ってみよう。

中国外交部の公開文書によると、上野動物園は54年2月、日中及び日ソ貿易を行っていた東京品川の古鷹産業(ふるたかさんぎょう)に仲介を依頼して、中国に動物交換の申し入れを行っている。しかしこのときパンダを要求した形跡はない。

理由は二つ考えられる。一つは、上野動物園がパンダに興味をもっていなかったため。もう一つは54年の時点では北京動物園すらパンダの飼育を開始しておらず、中国にパンダの交換を要求するのは非現実的だったからだ。

この後58年に、上野動物園の分園にあたる多摩動物公園が設立された。多摩動物公園の初代園長となった林寿郎(はやしじゅろう)は開園に際し、目玉としてパンダ導入を試みたとされる。筆者の知る限りでは、これが日本で最初のパンダ誘致だ。

林は当時通商産業大臣であった高碕達之助(たかさきたつのすけ)を通じて中国側にパンダの交換を打診したが、実現には至らなかった。

チチとアンアンの「お見合い」報道がなされた60年代半ばになると、日本の動物園はパンダ誘致に積極的な姿勢を示し始める。