「僕は今《能的》ということをとても気にしだしておりまして、〈美しく残る笑い〉〈演劇としての狂言〉というものをめざしているわけなんです。」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続けるスターたち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第10回は狂言師の野村万作さん。狂言の家に生まれて、3歳から稽古を始めたと語る野村さん。生涯を共に歩んだ演目『釣狐』を演じているときには、食事をしていても狐になり切っているそうで――。(撮影:岡本隆史)

<前編よりつづく

新しいアートの世界へ眼を開かせて

こうしたアートの世界へと導く、第二の転機となるべき人物を一人挙げるとすれば?

――それは観世寿夫ですね。彼は六つ年上ですが、共に悩み、共に創る、そういう仲でしたから。

たとえば『定家』というお能の間狂言(あいきょうげん)に僕が出てると、「地頭(じがしら)で僕はお前の語りを聞いてたけど、とってもよかったよ」とか、『月に憑かれたピエロ』を再演したときは「お前のピエロはその間に『釣狐』を演ったからか、とってもよくなったよ」とか、こっちにグッとくるようなことを言ってくれる。そういう仲間でした。

その観世寿夫らとの「冥の会」ではギリシャ演劇の『オイディプス』『アガメムノン』『メディア』、それから中島敦の『山月記・名人伝』なんかを上演しましたね。

またジャン=ルイ・バローが来日したときに、寿夫さんを中心に『芸術新潮』で座談会をやった。そこに僕も呼ばれて、それがのちの日仏演劇協会設立にまで発展する。第一回の留学生は寿夫さんで、その次は僕となったときに、どうしても日程の都合がつかなかった。代わりに行ったのが笈田勝弘(ヨシ)さんなんです。

寿夫さんは胃がんで53歳で早逝します。見舞いに行ったら、枕の下に彼が最も尊敬した宝生流の野口兼資(かねすけ)という方の写真を入れててね、「どうだ、いい写真だろう」なんて言って僕に見せました。

とにかく寿夫さんには、新しいアートの世界への眼を開かせてもらいましたね。