「近所の学校友達と遊んでいると父が探しに来て、『稽古だ』って、耳を引っ張って連れて行かれる。」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続けるスターたち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第10回は狂言師の野村万作さん。狂言の家に生まれて、3歳から稽古を始めたと語る野村さん。中学の頃演劇に興味を持ち、高校では歌舞伎研究会に入り、歌舞伎をたくさん観ていたそうで――。(撮影:岡本隆史)

耳を引っ張って連れて行かれた

『釣狐(つりぎつね)』と言えば、野村万作師の名演をおいて他にない。伝統芸能の世界に身を置きながら、さまざまな分野に敢然と挑み続けた結果、今の円熟した芸境に到達した、と言えるのだろう。

そこには、シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』をお能の観世寿夫(かんぜひさお)師と二人で、混じり合うかのように踊る情熱の舞台に眼を瞠った、昔の私の思い出も共にあって。

――あら、それはすごい。昭和30年でしたよ。

たしかに自分は狂言の家に生まれて、3歳から稽古を始めた『靭猿(うつぼざる)』で初舞台を踏んで。

祖父(初世野村萬斎)に習ってたころは優しいお稽古で、よくご褒美を買ってもらったりしてましたが、小学校に入ったころ、祖父が亡くなって父(六世野村万蔵)のお稽古になったら、厳しくて厳しくて。

近所の学校友達と遊んでいると父が探しに来て、「稽古だ」って、耳を引っ張って連れて行かれる。それが嫌で嫌で、稽古にも身が入らなくてメソメソしだすと、親父はいなくなっちゃう。で、暗くなると父の母親が、「ご飯お上がり」って助けに来てくれる。

そんな状況で、中学に入ったら同級生に演劇好きがいましてね。そのへんから少しずつ演劇ってものに興味を持ちだしました。それまでは映画も芝居もまったく観せてもらえなかった。

浅草へ行って、軽演劇の森川信とか、国際劇場の松竹少女歌劇とか、帝国劇場の『どん底』とかを観ているうちに、だんだん歌舞伎ということになって、早稲田の第二高等学院一年生のときに歌舞伎研究会に入って、一年間もろに歌舞伎をたくさん観ました。