2004年7月、パリで最後のオートクチュール・コレクションを発表。フィナーレで孫の泉さんと(写真提供:読売新聞社)
8月11日、ファッション・デザイナーの森英恵さんが96歳で亡くなった。東洋人としてはじめて、パリのオートクチュール組合への参入を認められ、約30年、日本の文化や心意気を服に込め、世界に発信し続けてきた。心がけたのは、女を強調し過ぎず、存在感を示す服。既製服においても動きやすさや上品さを大切にした森さんの仕事の軌跡を追う

洋裁学校に通う専業主婦

――戦争で我慢を強いられた女性たちが解き放たれて、おしゃれがしたくなったのでしょう。開店当初からお客さんがたくさん来てくれました。(略)わずか数人で寝る間を惜しんで服を作る毎日。それでもあっという間に売れてしまう(『読売新聞』2021年12月2日朝刊)

 

家族と写る幼少期の森さん(左から2番目)(写真提供:森英恵事務所)

家族と写る幼少期の森さん(写真・左から2番目)。外科医の父はおしゃれが好きな人で、写真においても三姉妹が揃いのワンピースを着ている。

 


【悔しさを美しさに変えて】(宮智泉)

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英恵さんが亡くなったというニュースが流れた直後から、ツイッターなどのSNSには「今でも森さんの服を大事にしています」「森さんがデザインした高校の制服があこがれでした」「すごい人だった」などの書き込みがあふれた。

歌手の美空ひばりさんの東京ドーム公演の衣装、皇太子妃雅子さまのご成婚の際のローブ・デコルテ、バルセロナ五輪の日本選手団公式ユニホーム……。また、日本航空をはじめとする数多くの企業の制服や、全国各地の学校の制服などを手がけた。時代の節目やイベントには、いつも森さんがいた。

服だけでなく、蝶のモチーフのついたハンカチやエプロンなど。どれだけ多くの日本人が森さんのデザインに触れたのだろう、と思う。それほど日本人にとって身近な存在であった。

森さんは理知的でいつも凜としていた。気さくで好奇心が強く、30年にわたる取材の中で、ずいぶんいろいろな話をした。しかし、昔の苦労や愚痴を口にすることはほとんどなかった。

筆者は2 0 2 1年暮れから今年初めまで、『読売新聞』朝刊連載「時代の証言者」(全30回)を執筆した。若き日の森さんを深く知るため、デザイナーとして活動を始めた1 95 0年代ごろから60年代にかけての新聞や雑誌の記事などを集めて回った。

驚いたのは、その数の多さだ。インタビュー記事だけでなく、自ら原稿も書いている。当時、婦人服のデザインだけでなく、数々の日本映画の衣装も担当していたのだから、超人的な働き方をしている。しかも、今ほど家電製品が発達しておらず、スマホもネットもない時代に、だ。

63年の『主婦と生活』に掲載された日記には「ビタミン剤やグロンサンを飲んででかける」「仕事に入る前に、新宿の店の近くで、パンや肉や果物などの買い物を済ませる。変わったジャムが食べたいという子供たちのために桃のジャムを買う」という記述がある。「明日は日曜日。のんびりできると思うと口笛を吹きたくなる」とも。

ほかにも「コレクションの前日、寝不足ですっきりせず、次男の恵と一緒に朝ご飯を食べても、ごはんをこぼしたとか、おはしの持ち方が悪いとか、ほんのちょっとしたことで子供をしかってしまう」という記述もあった。

こうした記事から見えてくるのは、仕事を思い切りしたいけれど、母親として家庭も大事にしたい、と両立に苦悩する現代の女性たちと変わらない素顔だ。