世界経済フォーラムが発表した、男女格差を測るジェンダー・ギャップ指数(2022年)において、日本の総合順位は146か国中116位と、先進国の中でも低かった。性別により生じる格差が埋まらないように思える日本だが、古典エッセイストの大塚ひかりさんは「古典作品をジェンダーの視点で読み解くと、日本という国が一変して見える」と言う。かつては、男女の境や性意識があいまいだった様子が、古典から伝わってくるそうで――。
性は越境可能で、その境はあいまいなもの
アマテラスが男装して弟のスサノヲを迎え撃とうとしたり、ヤマトタケルが女装して敵を倒したり、古代日本には、両性兼ね備えてこそ最強という思想があると思うのですが、その根っこには、「性は越境可能で、その境はあいまいなもの」という発想があると私は考えます。
『源氏物語』の"女にて見む"も、男同士で、相手を女にして逢って(セックスして)みたい、あるいは自分が女になって逢ってみたい、というふうに、相手や自分の性が変化可能であるという前提があっての発想です。
そうした視線で日本の古典文学や芸能を眺めてみると、越境した性にあふれていることに気づきます。
平安末期から鎌倉時代にかけては女が男装して舞う白拍子、江戸時代以降は男が女を演じる歌舞伎、そして現代には女が男を演じる宝塚歌劇というものがあります。
青島幸男が「いじわるばあさん」を演じ、夏目雅子が三蔵法師を演じ、それを抵抗もなく見ているのが日本人なのです。
紀貫之が、
「男もしている日記というものを女の私も書いてみよう」("男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとてするなり")
と『土佐日記』を書いたことは古文の授業でもおなじみですが、これなど、男が女のふりをしてネットに出没する「ネカマ」の元祖といえるでしょう。
男が女のふりをして文章(散文)を綴ることに何の抵抗もないのです。