90年前に海外で読まれた細やかな旅の記憶
市河晴子と聞いてピンとくる人は少ないと思います。市河晴子は1896年生まれ。渋沢栄一の孫であり、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業したのち、19歳で、日本人初の東京帝国大学英文科教授として活躍した市河三喜(晴子の10歳年上)と結婚した才媛です。
1931年、三喜が欧米諸国の実情視察の旅に出るとき「いっしょに行こうよ」と誘われ同行、その旅行記はロンドンやニューヨークで刊行され大きな反響を呼びました。未知の国・日本から来た女性が見た欧米、という視点は好奇心をくすぐるものだったのでしょう。それが『欧米の隅々』です。のちに刊行された『米国の旅・日本の旅』という紀行文と併せて、本書に抜粋しておさめられています。
で、この忘れられた晴子の本を、編者でフランス文学者の高遠弘美さんが2006年に神保町の古書店で手に取り、今回の出版に繋がるまでのエピソードがまたすごいので、ぜひ「はじめに」と「解説」も読んでいただきたい。奇跡の一冊といっていいでしょう。
90年ほど前の日本人女性が見た欧米の隅々。この「隅々」というのが、まさに男性にない着眼点というか、生活のディテールを詳細に書いて論評しているあたりが本書の抜群に面白いところです。
動物園や博物館など、訪れた施設やその国の物価などを当時の日本円に換算して記録し、ホテルでは備品に至るまで
「(ストックホルムで泊まったキリスト教関係の宿で)清潔で安価でわがままは利かず、室ごとにバイブルがある。ホテルにもそれぞれ個性がある。(その前に訪れた)ベルゲンの宿では、針刺に針、白黒のカタン糸、鋏を置いてくれていた旅人宿らしい心使いを、うれしく記憶している」
と記す。
欧風かぶれではない、知性とユーモアを感じさせる美文の連続に、心ときめかない人はいないだろう。