(提供:『すみれの花、また咲く頃』より)
109年の歴史を持つ宝塚歌劇団。タカラジェンヌたちが退団後に選んだ道とは? 劇団の機関誌『歌劇』のコーナー執筆を8年にわたって務めた元宝塚雪組の早花まこさんが、彼女たちの思いに迫ります。月組で男役スターとして活躍した中原由貴(煌月爽矢)さんの場合、10代から一般の社会とかけ離れた生活を送ったため、退団後には自らを「世間知らず」と感じていたそうで――。

元宝塚スター、コーヒーを淹れる

宝塚を卒業してからどんなことをするか、中原さんは全く決めていなかった。10代から一般の社会とかけ離れた生活を送った彼女は、どうしても「世間知らず」な部分を自分自身に見つけていた。

俳優の仕事をするために受けた、とあるオーディションでこんなことを言われてしまう。

「あなた、コーヒーとか淹れたことないでしょう?」宝塚出身の俳優は、演技の幅が狭い……そんな皮肉がこめられた指摘を受けたわけだが、落ち込む彼女ではなかった。

「それで私、コーヒーショップでアルバイトを始めました」

反発心ゆえの行動だったが、これが予想以上に面白い経験となった。

宝塚の生徒は、誰に対しても丁寧で礼儀正しく接するよう努めている一方で、周囲の人たちからは憧れの眼差しを向けられ気遣いを受けることも多い。タカラジェンヌだと知られると、「特別扱い」されることがしばしばある。

だがコーヒーショップには、実に様々なお客さんが訪れた。驚くほど不機嫌なお客さん、スマートフォンの画面を見たまま投げるようにお金を支払うお客さん、ちょっとしたミスを過剰に責め立てるお客さん……。

理不尽とも感じられる八つ当たりをされても、このアルバイト経験は、彼女曰く「めちゃめちゃ楽しかった」。半年で辞める予定が1年半も続けたというから、その言葉に嘘はないようだ。

コーヒーショップは、17歳の時以来初めての「タカラジェンヌだった自分」を誰も知らない職場で、新しい刺激に満ちていたのだ。