そこは「からだ」が衝突し合う場なのだ
ベテラン教師の教育論でもなければ、塾のカリスマ講師のような教授法の本でもない。公教育は身近な存在でありながら、現場の教員の声がほとんど世間に届かない。
それは、その立場で文筆業に携わる人が少ないのと、なにより彼らが「忙しい」からだ。そして教育は結果が出るのに何十年も時間がかかり、なにが正解なのかも定めがたいから迂闊なことが言えない。
だが本書は、現場で働く教員が、授業や部活やさまざまな経験を通して日々感じていることを言語化した労作だ。個人の力では解決しえない大それたテーマに挑むのではなく、生徒も親も教員も、学校について考えるキッカケになるようなエピソードを「部活動」「授業」「教員」「生徒」「行事」「コロナ以後の学校」と各章に分け、印象深い出来事を丁寧にまとめてある。
著者は文芸、音楽、芸能などの分野で評論活動をしている、教員としては異色の存在である矢野利裕氏。言語化のプロだ。中高一貫校で国語の授業を担当しながら、サッカー部の顧問を引き受ける。
そこで、自身が疲れていたり、自信がなかったりすると声が小さくなるといった自省から、教員として現場で説得力を持つカギとなる「身体性」の存在に気づいていく。その視線は自らが関わった教員にも向けられ、あの先生はすごかったんだなという気づきを得る。
同時に、生徒や学校行事に関しても、正論だけでは片付かない学校全体の諸問題に思索がおよび、学校が「からだ」が衝突し合っている場所だと論じていく。とにかく説得力がすごい。
サッカーという競技における、「自由」と「規律」という一見矛盾した思想の共存。生徒たちを釘付けにするダンス部の扇情的な踊りが、「合図とともに動く身体」を構築してきた学校という場においてどれほど大きな意味を持つのか。こういった視点を持った教員がいることに快哉を叫びたい。