松本潤さん演じる徳川家康が話題のNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。天下を統一し、幕府のトップとして武士を率いる「将軍」となる家康の歩みが描かれていますが、「将軍とは言え、強力なリーダーシップを発揮した大物ばかりではない」と話すのが歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生です。なおその家康、実は将軍になる前にも関わらず、関ヶ原でともに戦った大名へ土地の分配を行っていたそうで――。
家康は将軍ではない立場で土地の分配を行った
慶長五(一六〇〇)年、徳川家康率いる東軍と豊臣恩顧の大名からなる西軍が衝突した関ヶ原の戦いに勝利した時点で、家康はすでに天下人という地位をほぼ手中に収めたことになります。
家康が征夷大将軍になるのは、関ヶ原の戦いから三年後の慶長八(一六〇三)年のことです。
けれども一六〇〇年の時点で、将軍という官職を持たないまま、家康は一緒に戦った大名たちに論功行賞として土地の分配を行っています。実態としては、武家の棟梁として振る舞っていたことになります。
つまり、すでに征夷大将軍という官職は名ばかりのもので、中身のない地位にすぎなかったのです。
室町幕府最後の将軍・足利義昭は幕府滅亡後も一五八八年までは征夷大将軍の座にありましたが、全く存在感はありませんでした。義昭が鞆に拠点を置いたことから、鞆幕府を開いたとする研究者もいますが、実態から考えると、何の権限もない名ばかりの征夷大将軍だったことがわかります。
私が提案している「臣が将軍を定める」という定義からしても、鞆の義昭を将軍としてありがたがっている家臣などいませんので、鞆幕府は机上の空論でしょう。