ダメージを受けたはずの島津家への処断

別の例として挙げたいのは島津家への対応です。当時の島津家は義久と義弘の兄弟が切り盛りしていましたが、当主の義久は「薩摩第一主義」的な人物でした。

そのため、弟の義弘が兄の代理で中央に出てくることになり、その分、豊臣政権や天下の世情について精通していたわけです。その義弘が豊臣家の要求に応えるように兄に勧めても、義久のほうは薩摩が大事なので、関ヶ原の戦いでは一五〇〇の軍勢しか割かなかったわけです。

島津氏の規模ならおよそ一万の兵は出せたはずですから、相当に渋っていたことがわかります。

こうして島津家は西軍につき、家康に敵対しました。また、関ヶ原の戦いで西軍が敗走する際に、徳川方に対して大きなダメージを与え、徳川四天王のひとり、井伊直政に深手を負わせました。井伊直政はこの傷が元で亡くなるわけですから、島津の軍勢によって討たれたに等しいわけです。

なお島津の一五〇〇の軍勢は、撤退する際に激しい攻撃を受け、生き残った数十人がかろうじて薩摩まで辿り着いたような状態でした。ところが家康はその島津家に対して、領地を減らすこともせず、その存続を許しています。