しばらく行くと暗渠になり、水の流れは見えなくなる。この暗渠に添って歩いてゆけば、自宅アパートに帰り着く。
駅から徒歩約十分。この道が、最短距離である。
けれども大雨が降って水嵩が増している日には、明日美はいつも、迂回路を取ることにしていた。
神経が細くなっているせいか、近ごろは眠りが浅い。
時次郎の今後に、お金、店のこと。心配事が山積しているのだから、無理もない。早朝にふと目が覚めて、二度寝をしようにも叶わず、疲れを引きずったまま起き上がることになる。
時計を見れば、午前五時四十六分。「まねき猫」には、十時前に着けばいいはずだ。
時間があるので溜まった家事を片づけたいところだが、このアパートは壁が薄い。土曜の早朝から洗濯機や掃除機の音を立てると苦情がくる。トーストとコーヒーだけの簡単な朝食を済ませ、出かける準備を先に整えることにする。
水曜日に引き取ってきた時次郎のパジャマやタオル類は、綺麗に洗ってボストンバッグの中にまとめてある。病院で用意されているアメニティセットを申し込めば洗濯の手間もなく楽なのだろうが、なにせ日額五百円だ。本音を言えば時次郎が使ったものなど洗いたくはないが、節約のためである。
さて着替えと軽いメイクを終えても、まだ六時半。とたんに手持ち無沙汰になってしまった。
だったらもう、涼しい朝のうちに移動してしまおうか。なんと言っても「まねき猫」の二階の片づけが手つかずのままだ。ひかりが出勤してくる前に、ある程度は進めておきたい。
と、思ったのだが。
「まねき猫」に到着したのが、七時半ごろ。店にはすでに、先客がいた。
表のシャッターは下りていて、鍵はたしかに明日美が開けた。それなのに店内はエアコンがついており、逆さにしたホッピーケースに、少年がちょこんと座っていた。
「ああ――」
明日美は天を仰ぎ、額を手で覆った。
「おはよう!」
今日も盛大に寝癖をつけたアヤトが、元気いっぱいに挨拶を寄越す。
「おはよう。こんな早くからどうしたの?」
「暑くて、目が覚めちゃった」
襟元のよれたTシャツの胸元を掴み、アヤトはバタバタと煽いでみせる。
外はすでに苛烈な日差しが照りつけ、目が痛いほど。気温は急速な上昇を見せており、室内にいても熱中症の危険がある。エアコンがなければ、おちおち寝てもいられない。
「お母さんは?」
「仕事に行った」
「こんな早くに?」
驚いて、店内の壁掛け時計を確認する。アヤトの母親は、ビジネスホテルの清掃業務に就いているはずだった。
「早朝バイトのほう」
ダブルワークか。シングルマザーは忙しい。
「そう。だけど、誰もいないときに来られちゃ困るよ」
子供相手に大人げないが、ため息が洩れるのを止められない。
この子がいつ来てもいいように、勝手口の鍵は閉めるなと、求から強く言い渡されている。だが、時次郎不在の今、深夜から朝にかけての「まねき猫」は無人だ。その時間帯に入り込んできた子供がなにか事故でも起こしたら、どう責任を取ればいいのか。
「ごめんなさい。モールも図書館も、まだ開いてなくて」
叱られたと感じたらしく、アヤトがしゅんと肩を縮める。
べつにこの子を、萎縮させたいわけではないのだけれど。目の前の子供をどう扱えばいいのか分からなくて、明日美は目を瞑ってこめかみを揉んだ。
アヤトが母親と二人で暮らしている部屋は、昨年の春先にエアコンが壊れたっきり、修理もつけ替えもしていないという。東京では、夏場のエアコンはもはや必需品。暑くて寝ていられないのもあたりまえだ。
無理をすれば、命にかかわる。アヤトは母親から、昼間はショッピングモールや図書館に避難するよう言いつけられているそうだ。でもこの時間からこうも暑くなられては、彼には涼を取れる場所がない。