だからって人んちにこっそり上がり込んで、勝手にエアコンつけるってどうなのよ。
一度アヤトの母親を呼びだして、話をしたほうがいいと思う。だが下手に口を出すと、きっと求がうるさい。「部外者が横槍入れてくんな!」とかなんとか、唾を飛ばして怒りそうだ。
明日美の生活は、今や「まねき猫」と切り離すことができない。本当に部外者だったら、どんなによかったことか。
なにもかも、知らぬ存ぜぬで手放してしまいたい。それなのにこの世のしがらみというやつは、逃れようとしてもうねうねと触手を伸ばしてくる。
まさか他人の子供の面倒まで、見る羽目になるとは思わなかったけど――。
ゆっくり目を開けてみると、アヤトが不安げにこちらを見上げていた。明日美はただ困惑しているだけなのだが、怒り出すのではと身構えているのかもしれない。大人の顔色を窺うのが、癖になっているような子だ。そんなずぶ濡れの子犬のような目をされると、いたたまれなくなってくる。
「なにか、飲む?」
暑くて目が覚めたなら、体内は脱水状態かもしれない。尋ねてみると、アヤトはほっとしたように頷いた。
明日美もちょうど、喉が渇いていた。肩に掛けていた荷物をいったんカウンターに置き、厨房に入る。
この店のドリンクメニューには、ソフトドリンクの項がない。業務用の冷蔵庫を開けてみても、入っているのは割りもののグレープフルーツジュースとウーロン茶、それから無糖の炭酸水と水である。
「グレープフルーツジュースとウーロン茶、どっちがいい?」
「どっちもちょっと、苦いから――」
「なら水だね」
水分補給という点でも、それが一番だ。
そういえば幼くして亡くなった息子も、百パーセントのグレープフルーツジュースを「苦い」と言って嫌がった。代わりに好きだったのはアップルジュース。酸味を感じられないあのべったりとした甘さが明日美は嫌いだったけど、晃斗は美味しそうに飲んでいた。
「ねぇ、アップルジュースは好き?」
水のグラスを渡しながら、聞いてみる。アヤトはきょとんとした顔で首を傾げた。
「べつに、普通」
なにを聞いているのだろう、私は。名前が一文字違いだからって、この子と晃斗はなんの関わりもないのに。
質問の意図を曖昧にしたまま、明日美は、グラスに注いだ冷たい水を喉に流し込む。渇いた体が欲するに任せ、ほとんど飲み干してしまった。
「朝ご飯は食べたの?」
「うん、あんパン」
ひと口だけ水を飲み、アヤトが頷く。グラスを握る手の爪が、ちょっとばかり伸びすぎている。
「お昼は?」
「持ってきたよ、ほら」
傍らに置いてあったリュックを膝に載せ、アヤトが取り出したのはまたしても菓子パンだ。イチゴジャムとマーガリンを挟んだ、コッペパン。カロリーだけは立派だが、食事代わりにするには栄養の偏りが心配になる。
だからこそ、彼はこの店への出入りを許されているのだろうけど――。
「ねぇ、おばちゃん」
幼い声で呼びかけられて、明日美は「ん?」と応じる。見返すアヤトの目は、一点の濁りもなく澄んでいる。
その瞳に懐かしい面影を探しそうになったとき、アヤトがゆっくりと瞬きをした。
「時次郎おじちゃんは、いつ帰ってくるの?」
澄みきった目の縁に、じわりと涙が滲む。時次郎を襲った突然の病に、彼だって小さな胸を痛めているのだ。
答えようがなくて、明日美は「うっ」と言葉に詰まる。
昨日の朝、病院の地域連携室に勤めるソーシャルワーカーから電話があった。時次郎の、今後についての相談だ。
要介護認定の申請はまだこれからだが、時次郎に重い障害が残るのはまず間違いない。退院後は在宅で介護をするか、それとも施設に入れるか。今の段階での考えを教えてほしいという用件だった。
明日美は形ばかり迷う素振りをみせてから、「在宅は難しい」と答えていた。
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