〈七〉
職場のある新宿から笹塚までは、京王(けいおう)線で約五分。通勤に体力を削られないよう、住まいは交通の便のいいところを選んだ。
金曜の夜とはいえ、いつもならまだ余力があるはずだ。けれども明日美は魂が半分抜けたようにぼんやりとしながら、駅の改札を通り抜けた。
今日はやけに、面倒な問い合わせが多かった。特に最後の客には、一時間四十分も粘られた。
明日美が勤めるコールセンターでは、スマートフォン端末の修理受けつけや、基本的な操作方法のサポートなどを担っている。最後の電話もまた、修理希望の客だった。
しかし顧客データから調べてみると、メーカーの保証期限が切れていた。それなら正規の修理費用が必要だ。その旨を伝えると、相手はごねにごねた。
なんのために、決して安くもない延長保証に加入したのか。そう文句を言いたくなる気持ちは、分からなくもない。でも延長保証にだって期限があることは、はじめから伝えられているはずだった。
そこから先は、「保証を認めろ」「できません」の押し問答。こういう場合は、相手が根負けするのを待つしかない。すぐ諦めてくれる客もいれば、粘る客もあり。一時間四十分は、今までの最長記録だ。
そのせいで、三十分ほど残業になってしまった。自宅アパートに帰り着くころには、九時を過ぎてしまう。
晩ご飯、どうしよう。
空腹は、すでに耐えがたいほどだった。帰宅してから夕飯を作りはじめると遅くなるし、その気力もない。
「――疲れた」と、小声で呟いた。
考えてみれば前の土日は、まともに休息を取れていない。土曜日には時次郎に多額の借金があることを知らされて、日曜日は「まねき猫」の閉店時間までこき使われた。
月曜からは、通常業務。水曜日は通勤前に病院に寄り、時次郎に着替えを届けたりもしている。やけに長く感じた一週間だった。
――さっさとご飯を食べて、早く寝なくちゃ。
明日と明後日は、またも「まねき猫」の手伝いだ。「アンタが入れるなら、土日のスタッフ探さなくて済むんだよ!」と、求に押し切られた形である。
つまりこの先、明日美には休日というものがない。平日はコールセンター、週末は「まねき猫」。四十二歳の体力で、はたしてどこまでもつだろう。
そう考えると、自宅へ向かう足取りが重くなる。
お金の心配さえなければ、求に言いくるめられることもなかっただろうに。
明日美の収入では、自分自身を養うだけで精一杯だ。時次郎の入院費用は、「まねき猫」のあがりで賄いたい。「宮さん」への借金完済に向けて、こつこつと貯金してゆく必要もある。
ならできるかぎり支出を抑えて、店の利益を増やさなければ。土日のシフトに明日美が入れば、少なくとも一人分の人件費は浮く。
東京都の最低賃金は、時間額千円を超えている。土日だけでも、馬鹿にできない人件費だ。体力に自信がなくたって、四の五の言っていられない。
近ごろは、日々の出費まで節約しなきゃと気が揉める。空腹ながら、駅前の飲食店は素通りすることにした。
たしか家に、冷凍うどんの余りがあったはず。それに白出汁をぶっかけて、卵を落とせば充分か。
そもそも明日美は、料理があまり得意じゃない。家庭があったころはそれなりに頑張っていたけれど、自分のためだけに包丁を使うのは億劫だった。
湿気を含んだ夜風に濃い緑のにおいを感じ、顔を上げる。駅から南へ歩いてゆくと、小さな橋を境にして、土で固められた昔ながらの堀割が現れる。
玉川上水である。この辺りの流れはほぼ暗渠化されているが、ほんの一部がこんなふうに、開渠になっている。
V字型に切れ込んだ地面の底に、流れる水はわずかなもの。仮に落っこちたとしても、足元を濡らす程度で溺れるのは難しい。
水路のある町は、もうこりごりだと思っていたのに――。
この開渠に気づいたのは、引っ越しを終えてからだった。内見のときは不動産屋の車で回ったから、この道は通らなかったのだ。