決戦の場所は本当に関ヶ原だったのか
第二に、決戦の場所は関ヶ原だったのか、山中だったのかという問題がある。
これまでは合戦の場所は関ヶ原であると考えられてきたが、白峰氏は合戦当日の十五日付伊達政宗宛家康書状で「今十五日午の刻(正午頃)に濃州山中において一戦に及び」とあるのをはじめとして「山中」という地名が頻出し、「山中合戦」と記されるなど、主戦場は関ヶ原よりももっと西寄りの山中という地名の場所であったとした。
ただし同じ家康書状でも、九月二十四日付小早川秀秋宛では「今度関ヶ原の御忠節の儀、誠に感悦の至りに候」と、ここでは関ヶ原といっており、関ヶ原とする文書も多い。
白峰氏はこれを、大谷吉継隊が壊滅した関ヶ原エリアの第一段階と、石田三成らの主力本隊を追い崩した山中エリアの第二段階と、二段階にわたる戦闘が行なわれたためだと解釈した。
これに対しては、主戦場はやはり関ヶ原であったとする有力な反論が出された(小池絵千花「関ヶ原合戦の布陣地に関する考察」)。
すなわち、家康書状もそうであるが、日付が下るにつれて「関ヶ原」地名使用文書が多くなる傾向から、当初は「山中で合戦が行なわれた」と書いていたが、のちに戦場は関ヶ原であったと判明したため、「合戦は関ヶ原で行なわれた」と認識を改めたこと、つまり地名認識の変化の結果として双方の地名が出てくるというのである。これによれば、主戦場はやはり「関ヶ原」だったということになる。