井伊直政と松平忠吉による抜け駆けの発砲はあったのか

第五に、これは白峰氏が取り上げている問題ではないが、同じく関連して、開戦時に井伊直政と松平忠吉(家康の四男)が、先鋒であった福島正則隊の前に回り込み、抜け駆けの発砲をして先陣を切ったという逸話がある。

豊臣系諸将が圧倒的に多い東軍の中にあって、この戦いを徳川の戦いとして形作りをするためには先陣を取ることが不可欠であったとして、この行動を高く評価する説もある。

しかしながら、成立年代の早い太田牛一の『『内府公軍記』』などにはそのような記述はみられず、これこそ「徳川史観」に基づく後世の創作とみるべきであろう。

直政・忠吉はそれぞれ3000程の軍勢を率いていたとみられているが、それらの軍勢を置いたままで、僅かな手勢でもって福島隊の前に回り込んで先陣を切るというようなことは、ありえなかったといえよう。

※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。


徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。