「問鉄炮」問題

第四に、これと関連していわゆる「問鉄炮(といでっぽう)」問題がある。

すなわち、これまでは昼頃まで一進一退の攻防が続いていたにもかかわらず、内応の約束をしていたはずの小早川隊が動かなかったため、家康方から参戦を促す「問鉄炮」(「誘い鉄炮」ともいう)を打ち掛けた。これに驚いた秀秋がやっと参戦を決断し、大谷吉継隊に攻めかかったことを契機として、西軍は総崩れになったといわれてきた。

ところが、第三でみたように小早川隊が開戦とほぼ同時に裏切ったとすれば、「問鉄炮」というような問題が生じるはずがなく、後世の創作であることが明確になった。

諸史料(編纂史料)における「問鉄炮」の記載について検討した白峰氏は、江戸時代中期から幕末にかけて成立した編纂史料に「問鉄炮」に関する記載がみられるようになることから、「問鉄炮」の話は江戸時代中期に創作されたものであることが強く示唆されるといわれている。