開戦時刻と秀秋が裏切った時点が何時だったか

第三に、開戦の時刻と小早川秀秋が裏切った時点が何時だったかという問題がある。

これまでは、九月十五日の辰の刻(午前八時頃)に、前夜からの雨は上がったとはいえなお霧が立ち込める中で、東軍の先鋒を務める福島正則隊が、西軍の宇喜多秀家隊にいっせいに鉄炮を放って始まった。

そして一進一退の攻防戦が昼頃まで続き、そこでやっと小早川秀秋が西軍に叛いて大谷吉継隊に攻めかかり、これを契機に西軍は総崩れとなって、東軍が圧勝したといわれてきた。

これに対して白峰氏は、主として九月十七日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状写に拠りながら、新見解を出した。

すなわち、そこでは十五日の巳の刻(午前十時頃)に開戦し、開戦と同時に小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子の四名が裏切りをしたといっている。また、イエズス会の日本報告集でも、開戦と同時に小早川秀秋らが裏切ったため、奉行たち(三成ら)の軍勢は短時間で敗北したといっている。

こうして、東西両軍による関ヶ原での決戦は、これまでいわれてきたような状況とはまったく違って、開戦は午前十時頃であり、しかも開戦と同時に小早川秀秋らが裏切ったため、正午頃には西軍は総崩れになっていたというのである。このような第三の点を明らかにしたことが、白峰氏の新説の最大の貢献であろうと思っていた。

ところが、白峰氏はその後、家康方軍勢と裏切った小早川秀秋の軍勢によって大谷吉継隊が壊滅した関ヶ原エリアの戦いは十五日の早朝であり、家康方軍勢の主力が山中エリアに布陣した石田三成方軍勢を追い崩したのが巳の刻であったとするに至った(「徳川家康の「問鉄炮」は真実なのか」)。これは一次史料である石川・彦坂連署書状写の内容とは明らかに齟齬を来した主張であり、再検討する必要があるだろう。