松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第41回で大坂城・西ノ丸に入った家康。政治を意のままにおこない、周囲から天下人と称されているのを茶々(北川景子さん)は苦々しく見ていた。そんななか、会津の上杉景勝(津田寛治)に謀反の噂が広がり――といった話が展開しました。一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。今回のテーマは「関ヶ原合戦の新説について考える」です。
近年つぎつぎに現れている「関ヶ原の合戦」の新説
さて関ヶ原の合戦であるが、近年この決戦当日の状況については新説がつぎつぎに現われて、通説の見直しが進んでいる(白峰旬『『新解釈 関ヶ原合戦の真実』』など)。
ここではこれまでの通説と比べ、どのような諸点が注目されるのか、その主要な点について順不同でみてみることとしたい。
第一に、十四日の夜に西軍諸将が大垣城を出て関ヶ原方面に向かったのは、どのような事情があってのことかという問題である。
従来は、東軍は大垣城にはかまわず西進し、三成の居城である佐和山城を落とし、さらに大坂に向かおうとした。その情報を知った西軍がこれを阻止すべく、急遽大垣城を出て関ヶ原に布陣したものとみてきた。
これに対し新説では、十四日に小早川秀秋が松尾山を占拠したとの報がもたらされると、西軍は秀秋の逆意を察知し、山中に布陣していた大谷吉継が危機に陥るので、これを救援するために大垣城を出て関ヶ原に向かったとするのである。
この吉継の救援のためとする史料的根拠は、合戦二日後の吉川広家(吉川元春の三男)の書状案であるが、あくまでも関ヶ原方面が見えない南宮山にいて、合戦には参加していなかった広家の推測にすぎない。大垣城の石田・島津・小西・宇喜多の諸勢がこぞって移動した理由としては、通説に比べるとやや弱いように思われる。