東武が選ばれた理由

なぜ、京成の浅草延長線は認められず、東武が選ばれたのか。鉄道省文書を見ても理由は不明だ。

『京成電鉄五十五年史』は「この間のいきさつについて、今更掘り起こすつもりはありませんが」と東武との複雑な関係に婉曲的に言及している。

『開封!鉄道秘史 未成線の謎』(著:森口誠之/河出書房新社)

ただ、当時は憲政会の加藤高明内閣の時代だった。東武の根津嘉一郎社長も過去に憲政会の代議士だったことがある。東京市議会の多数派と市長も憲政会系だった。そうした縁が東武への浅草延長線免許につながったのだと思われる。

京成は昭和になると苦境に陥っていた。2つのライバル鉄道計画が浮上していたからだ。

1つは、東京成芝電気鉄道グループの東平井(東京メトロ東西線東陽町駅付近)〜安食〜成田・松尾間の新線計画で、1927(昭和2)年に免許を受けていた。今の北総鉄道に似たルートだった。発起人には、東武の根津や目蒲蒲田電鉄(現・東急目黒線)の五島慶太が名を連ねていた。共に、後藤が経営する京成と池上電鉄の競合相手である。

もう1つは、鉄道省の省電計画。当時、総武本線の両国〜千葉間の電化と、両国〜御茶ノ水間の延伸が決まっていた。総武本線電車が都心で山手線や中央線と連絡を始めると、中心地から外れた押上をターミナルとする京成は致命的打撃を被る。