総武線電化後、京成も浅草延伸を認められるも時すでに遅し
鉄道省は、京成浅草延長線の申請の可否を先送りする。東京市議会を巻き込んだ京成疑獄事件が起きたので判断しづらかったのだろう。
1931(昭和6)年5月、東武は業平橋〜浅草間を開通し、浅草中心部への直通を果たす。総武本線御茶ノ水〜両国〜千葉間での省電の運行も間近に迫っていた(1932年運行開始)。
先述の東京成芝電鉄改め成田急行電鉄は東平井から曳舟経由で東武浅草駅に乗り入れる構想を発表する。
京成は、ライバルたちの動きを会社存亡の危機と認識し、鉄道省に浅草延伸と地下鉄連絡について改めて要望書を提出。「出願は会社が生存するための弊社のやむなき悲鳴である」と訴える。
鉄道省は、1931年7月、京成に浅草〜請地(押上)間の軌道敷設特許を与えている。京成の最初の浅草延伸線の申請から8年。ようやく浅草延伸への権利を手に入れることができた。鉄道官僚も他社とのバランスを考えたのだろう。
ただ、京成はこの時期には方針転換し、上野への延伸を目指していた。1930(昭和5)年に上野への鉄道敷設免許権を持っていた筑波高速度電気鉄道を合併し、1933年までに上野公園(現・京成上野)〜日暮里〜青砥間を完成し、東京市内乗り入れと地下鉄連絡を果たす。
押上〜浅草間の新線については工事設計にまでは至らず、工事施行認可申請の延期を続けていたが、1943(昭和18)年7月に申請を取り下げた。これで京成の浅草延伸計画は事実上頓挫する。