浅草延伸案は東京市議会で可決されるも、贈収賄疑惑が浮上

京成は1927(昭和2)年3月、4回目の浅草延長線の特許申請を行うが、またもや東京市議会で乗り入れ案が否決。申請を取り下げざるを得なくなった。

正念場を迎えた京成は、同年10月に5度目の申請を行う。1928(昭和3)年5月、京成の浅草延伸特許線についての諮問案が東京市議会に提出された。議員の多くは京成乗り入れに反対しており、可決される見通しはない。

京成は東京市議会に政治工作を図る。後藤専務は、政友会系の市議に影響力を持つ前田米蔵や中島守利と接触する。一方、本多社長は、民政党(旧憲政会)の大物、三木の説得にかかる。

同年6月の臨時市議会で京成乗り入れ案は見送られる。7月の特別委員会でも6票対8票で否決される。京成の動きに感づいた反対派住民が抗議に押しかけ、流血騒ぎがおきる。 

そして、7月13日の東京市議会では、42票対35票で京成の浅草乗り入れ案が可決されてしまう。なぜ市議たちが心変わりしたのか。2か月後の9月、京成本社や社長私宅の捜索が行われ、本多社長や後藤専務らが召喚された。

京成本社の帳簿にあった使途不明金が市議への工作費に使われたのではないかとの疑惑が浮上していた。総額62.6万円、現在だと約6億円の価値がある。

東京地方裁判所の判事は、本多社長や後藤が正力松太郎に委ねた約15万円に注目する。正力経由で市議たちに渡された裏金の流れが焦点になる。市議会民政党の三木、政友会の中島と京成の関係が取り沙汰され、両人は相次いで収監された。

正力は読売新聞社主として、戦前戦後の政財界で活躍した人物として有名だ。虎ノ門事件で警視庁を1924(大正13)年に懲戒免官した後、川崎財閥や後藤と縁を持つ。京成の総務部長に就任し、ストライキを抑え込んだ実績もあった。

当時、正力は、東京市会と民政党の大御所である三木と提携し、東京市長選への出馬を模索していた。後藤は正力に依頼し、京成反対派の頭目だった三木の懐柔を委ねた形になる。

後藤専務は正力に資金を渡したことを認める一方、その行方はまったく知らないと説明する。正力は、関係議員に対し運動を仕掛けただけで金銭の譲渡は行われなかったと賄賂性を否認した。

東京地裁は、後藤が正力に渡した10万円が、三木に5万円、中島に5万円が委ねられ、それが系列議員にバラまかれた、と資金の流れを解明。1932年の控訴審判決で、正力に禁錮2か月、三木に禁錮3か月の判決が下される。3年後の大審院判決で執行猶予付きの有罪刑が確定した。