運輸省からの異例の免許

社長の堤康次郎を中心に事業立て直しを始め、同年8月、村山線の延長線として高田馬場〜新宿駅東口間を申請する。

新宿界隈は戦災で焼け野原になるが、終戦直後から闇市が広がり、急速に街の規模が拡大し、鉄道ターミナルとしての重要度が高まっていた。また、村山線と山手貨物線を結ぶ貨物輸送ルートを確保したいという考えもあった。

『開封!鉄道秘史 未成線の謎』(著:森口誠之/河出書房新社)

当時、西武高田馬場駅では貨物取扱をしていなかったため、村山線から省線へ直通する貨車は中央本線国分寺駅経由の大回りを強いられていた。西武は1948年3月、高田馬場〜新宿間の鉄道事業免許を受け、代わりに早稲田延長線の起業廃止の許可を得ている。

戦後まもない当時、都区内では東急や京成など私鉄各社が都心への地下鉄延伸線を十数路線も申請し、都庁や営団(運輸省)と対立していた。しかし、運輸省は西武の新宿延長線について問題なしと判断し、異例の免許となった。

都は新宿に旅客が集中しすぎる問題がある点を指摘し、地平線での敷設はしないよう要請している。ただ、反対していたわけではない。この背景には、千葉の鉄道連隊線の払い下げ問題があったとも指摘されている。

西武が同線を引き受ける話もあったが、最終的に京成が譲り受け、新京成電鉄として開業している。その見返りで、西武に新宿延長線の免許権、および連隊線のレールなど資材が与えられたという。

また、懸案となっていた旧西武新宿軌道線新宿〜荻窪間の問題もあった。都は戦時中に旧西武から運行管理の委託を受けていたが、水面下で路線を譲り受ける協議をしていた。

その過程で、都と西武が互いに譲歩したのだろう。最終的に都が1951年に買収して都電杉並線となる。