現・ルミネエスト新宿に駅改札口の空間を確保
西武が1948(昭和23)年に提出した申請書によると、まず山手貨物線の東側に仮線を敷設して西武電車を新宿駅まで乗り入れさせるプランだった。その上で、山手線西側に新しい路盤と新大久保駅ホームを敷設して、山手線電車を移設させる。最終的に、西武が山手線敷地跡に新線を敷設した上で、山手貨物線東側の西武仮線を撤去する計画だった。山手線新大久保駅ホームを「西武大久保駅」に転用する案もあった。ただ、工事が大掛かりになることもあって実現はしていない。
翌年、西武は、高田馬場〜青梅街道ガード下間2.1kmの工事施行認可を受けた。山手貨物線の東側に路盤を敷いて、歌舞伎町一丁目に仮駅を設けることにした。地権者と調整しながら、1952(昭和27)年3月に西武新宿駅が開業し、村山線改め新宿線の電車が乗り入れを始めた。
残るは、西武新宿駅〜新宿駅東口間0.4km。西武は着工を望むが、関係当局から駅ビルの建設まで乗り入れを待つように勧告された。青梅街道沿いの一部で用地買収ができていないのも一因だ。
新宿ステーションビルディング社は1959(昭和34)年に設立され、国鉄系の鉄道弘済会、伊勢丹、高島屋と共に西武も出資者に名を連ねた。同社は東口広場に地上8階建ての商業ビルの工事に着手する。西武は1961年に国鉄と協定を結び、新駅の設計に入る。
ホームは新ビル2階部分の北側を予定し、1面2線で長さ143m。山手貨物線(現・埼京線)の敷地東側と新宿通りの空間を活用する。新ビルの1階と2階に駅改札、3階に駅長室が確保された。
新宿ステーションビル(現・ルミネエスト新宿)は1964年に開業するが、その直前、西武総帥の堤康次郎が急逝する。そして翌1965年、西武は取締役会で新宿駅東口延伸線の中止を決定し、3月に国鉄新宿駅〜西武新宿駅間の起業廃止を行っている。
なぜ西武新宿線の国鉄新宿駅までの延伸は実現しなかったのか。西武は、当初、新宿
線は将来も6両で十分に足りると判断していた。だが、通勤客数は60年代に急増し、高田馬場駅の乗車客数は1960年6.8万人から1965年10.1万人と5割増となる。
1960年に6両運転を始め、1963年に朝ラッシュ時の運行本数を24本に増やした。近い将来の新宿線8両化は必至と考え、同年、新駅のホームを8両対応とする申請を行っている。
だが、運輸省は、ホーム先端部がかなり狭くなる設計を問題視し、乗降客の危険が多くて不適当だと指摘する。高田馬場など他駅で付属編成を分割する提案もあったが、西武は実務的に不可能と報告する。