三段撃ちと馬防柵
長篠城址の見学を終えたツアー参加者は、同じく充実した資料(とお土産)が揃った新城市設楽原歴史資料館を経て、いよいよ本日のクライマックス、設楽原の馬防柵見学へ。
数万の軍勢が対峙したという設楽原、さぞ大きな平野だろうと思っていたのですが…。
足を運んでビックリ。信長・家康連合軍、武田勝頼軍ともに、その背後は森や山などの斜面となっており、大きく展開する余地がなさそうな印象でした。
もちろん状況は当時と変わっていると思いますが、それでも大きな合戦を行う場所として、やや手狭なのは間違いなさそうです。むしろ、川を挟んで信長・家康連合軍が並んでいたであろう位置と、武田勝頼軍の位置の”近さ”に驚かされることとなりました。
それだけに鉄砲は効果絶大だっただろうな、と思いつつも、三段撃ちのような統率の取った戦法をせずとも、とりあえず撃てば相手に当たったのかも、というのが現場での感想でした。
一方、当時使われた鉄砲の弾が、この周辺でそれほど多くは発掘されていないらしく、どこまで銃が活用されていたのかについても、はっきりしないところがあるようです。
本郷先生曰く、むしろ設楽原では「馬防柵が戦場に築かれた」という事実のほうがとても重要だそうで、この柵は、以後戦場で大いに力を発揮するようになる「野戦築城」の一例とのことでした。
そうした先生の解説をいただきながら、現代に再現された馬防柵を間近で眺めてロマンに浸っていると、いつの間にか日が暮れてまいりました。
本日の古戦場巡りはこれにて終了。明日は小牧・長久手、そしていよいよ関ヶ原の古戦場へと向かいます。
『「失敗」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)
出版業界で続く「日本史」ブーム。書籍も数多く刊行され、今や書店の一角を占めるまでに。そのブームのきっかけの一つが、東京大学史料編纂所・本郷和人先生が手掛けた著書の数々なのは間違いない。今回その本郷先生が「日本史×失敗」をテーマにした新刊を刊行! 元寇の原因は完全に鎌倉幕府側にあった? 生涯のライバル謙信、信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ? 光秀重用は信長の失敗だったと言える? あの時、氏康が秀吉に頭を下げられていたならば? 日本史を彩る英雄たちの「失敗」を検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if"を展開。失敗の中にこそ、豊かな"学び"はある!