秀頼との関係

たとえば、秀頼との関係についてみると、諸大名が歳首を賀する順序でいえば、将軍就任以前は大坂城の秀頼が先で、伏見城の家康が後であった。家康自身も秀頼の臣下の立場にあるため、慶長七年(一六〇二)には三月十四日に、翌八年には二月八日に、それぞれ歳首を賀するため大坂に下っている。

『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

ところが、将軍就任以後は、豊臣公儀と並ぶ徳川公儀という新たな権威を手中にしたことにより、家康が年賀のために大坂へ下ることはなくなった。諸大名の秀頼への年賀もまた、幕府をはばかって次第になくなっていった。

しかしながら、この段階ではなお大坂城の秀頼のもとで、豊臣公儀は厳然として残っていた。家康の将軍就任以後も、親王・諸公家・諸門跡などが、歳首を賀するために大坂へ下ることが絶えることはなかった。

家康と秀頼との位階・官職についてみても、朝廷の対応はまったく平等で、前年の慶長七年(一六〇二)正月に家康が正二位から従一位に昇進すると、秀頼もまた従二位から正二位に昇進している。この年二月に家康が右大臣に昇任すると、わずか二ヵ月後の四月には、秀頼も内大臣に昇任するというように雁行していた。

家康の将軍就任と同時に、秀頼も関白に任じられるとの噂も流れたようで、正月二日付で毛利宗瑞(輝元)が国許に宛てた書状によると、「内府様が将軍になられ、秀頼様が関白になられたとのことです。めでたいことです」といっている。

関白就任の件はもとより風聞でしかなかったが、秀頼がいずれは関白になり、政権に復帰する可能性があるというのが、当時の人々の間でほぼ共通の認識だったことを示している。