千姫の輿入れと秀忠への将軍職譲渡
このような豊臣方との微妙な関係の中で、家康にとっては孫娘にあたる秀忠の長女千姫(七歳)が、七月二十八日に秀頼(十一歳)のもとに嫁いだ。これは秀吉との生前の約束を履行したものであったが、とりあえず徳川・豊臣両家の婚姻を通じて、権威の分有を図ろうとしたものであった。
輿入れの状況をみると、当日は伏見より船で淀川を下ったようで、黒田長政らの豊臣恩顧の諸大名が河辺を警護し、大坂では浅野幸長が輿を受け取っている。豊臣系諸大名には、なお秀頼を主君と仰ぐ意識が強かったことを示している。
将軍になってわずか二年後の慶長十年(一六〇五)四月十六日に、家康は秀忠に将軍職を譲った。秀忠は伏見城に勅使を迎え、将軍に任ぜられるとともに、従三位権大納言から正二位内大臣に叙任され、淳和院別当にも補任され、牛車・兵仗を許された。源氏長者と奨学院別当は、家康がそれまでどおり保持した。秀忠の内大臣任官が可能になったのは、その四日前の十二日に、内大臣秀頼が右大臣に任官していたからである。
将軍職を譲った家康の意図は明瞭で、徳川氏が将軍として政権を世襲することを天下に知らしめたのである。それはまた、いずれ秀頼が関白として政権を担うことになるだろうとの豊臣方の期待を、完全に打ち砕くものでもあった。
これを契機に、徳川公儀は豊臣公儀を次第に凌駕していくことになった。将軍任官のための秀忠の上洛には、関東・甲信以東の諸大名四〇名余りが動員された。この一〇万とも一六万ともいわれる大軍を率いた上洛が、大坂城の秀頼と西国の外様諸大名を威圧する役割を果たしたことはいうまでもない。