駿府奉行衆
こうして、家康の大御所政治期の諸政策は、基本的に駿府政権によって遂行されたのであり、その中枢を担ったのが駿府奉行衆であった。
本多正純(本多正信の嫡男)を筆頭に、安藤直次・成瀬正成・大久保長安・村越直吉の五名が中心で、駿府政権からの発給文書についてみても、この五名による連署状が多い。竹腰正信・彦坂光正・畔柳寿学・米津親勝・板倉勝重らが署判の列に加わることもあったが、それらは職務にかかわる部分的・限定的な関与にとどまった。
他方、江戸の将軍秀忠の方にも、江戸奉行衆が置かれていた。家康の信頼が厚く秀忠のお目付役的な本多正信と、門閥譜代層の代表格で早くから秀忠側近であった大久保忠隣とが双璧で、これに酒井忠世・土井利勝・安藤重信・青山成重らであった。
家康は本多正信・正純父子を通じて、これら駿府と江戸との双方の政情を、しっかりと掌握していたのである。大御所家康期の駿府は、まさに日本の首都ともいうべき政治の中心地であり、人口も一〇万とも一二万ともいわれるような賑わいをみせていた。
※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。
『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)
弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。