家康と秀忠の二元的政治
家康が将軍職を秀忠に譲り、ついで慶長十二年(一六〇七)に駿府に居城を置いたことによって、駿府の大御所家康と江戸の将軍秀忠との間で、いわゆる二元政治が展開することになったとよくいわれる。
慶長十年代半ばの両者の関係を図示すると、図のごとくになるので、たしかに形の上ではそれぞれの執行機関も含めて、そのようにいってよいようにもみられる。
しかしながら、家康は大御所として引き続き実権を握っており、将軍秀忠が父家康の意思に背反することはなかった。図をみても、駿府の大御所家康の方に、多彩な人材が集まっていたことがわかる。それゆえ、両者の関係では、軍事指揮権や外交権の所在などからも明らかなごとく、家康の権限が圧倒的に大きく、せいぜい二元的政治というべきところであろう。
ただ、諸大名の動員や支配において、家康が東海・北陸から西の諸国を、秀忠が関東・奥羽の諸国をというように、おおよその分担はあった。将軍秀忠にも、それなりに支配の実態があったのだ。