試行錯誤を繰り返す中で
そもそも、このIR700の実験を小川が後回しにしていたのにはわけがある。
「小林先生には前々からやってみてと言われていたんですけどね」と小川は言う。
「“化学屋”の私としては、IR700の化学式があまり素敵な形じゃないなあと思っていたんです」理系の研究者はしばしば自分の専門分野を伝える際にこうした言い回しをする。“物理屋”“化学屋”“数学屋”などだ。それはともかく、小川のような薬学の専門家の目からはIR700という物質はそう見えたらしい。
「化学式を見るとわかるんですが、この試薬はもともとは水に溶けにくいフタロシアニンという色素を水溶性にするために、スルホ基を上下につけているんです」
スルホ基とはスルホン酸の陰イオン部分で、水によく溶ける。スルホン酸自体は硫酸に匹敵する強い酸なのだが、このスルホ基の性質を利用して、染料や界面活性剤など水に溶けていないと使えない有機化合物を合成する際に使われる。
「実験の素材としては非常に扱いにくそうな化合物だったんですね。なので、正直なところ、ほったらかしにしていたんです。でも、そろそろ留学期間も残りわずかだし、小林先生にもお尻を叩かれていたので、ちょっとやってみようかと」
フタロシアニンは光や熱に強い性質を持つ色素である。道路標識や東海道・山陽新幹線の車体のあの青色の塗料に使われている。これを水溶性にしたIR700は小林が以前から懇意にしていた小さな化学メーカーが売り込んできた。この物質が気になった小林はメーカーと調整を重ね、実験や治療に使えるよう仕立てていたのだ。
そのIR700の実験がうまくいかない。
それどころか、がん細胞は死んでしまっているようだった。死んだがん細胞を特定できたところで画像診断としては意味がない。生きたがん細胞を光らせてこそ、治療に役立つのだから。