「どうせ時さんが退院してきたら、介護もあるし、同居が必要になるだろ?」
なにを言ってるの、この子は――。
衝撃のあまり、頭の中がくらりと揺れる。求は実に無邪気に、時次郎の面倒は明日美が見るものと決めつけている。
平日は会社に行って、土日は店を手伝って。今でも手一杯なのに、介護までやれと?
しかも相手は、半身不随の大男だ。明日美だって小柄なほうではないが、しょせんは女性。時次郎の図体では、体位変換すら難しい。親子関係だって良好ではないのに、そんな毎日に耐えられるのだろうか。
体を壊して、鬱になってる未来が見える――。
ありがたくもない未来予想図に、明日美は思わず頭を抱えた。
「コラ。肉親でもないのに、勝手なこと言わないの」
ひかりが求をたしなめてくれなければ、取り乱していたかもしれない。
「いや、でもさ」
「求!」
まだなにか言いたそうにしていた求も、渋々ながら口をつぐむ。
どういうつもりなのだろう。ひかりも、時次郎サイドの人間ではないのか。
恐る恐る顔を上げてみる。いつの間にか、ひかりは二本目の煙草に火をつけていた。
「でもそうね。ここでアヤトが一人で過ごすのは、たしかにいただけないかもね」
煙が邪魔になって、表情がはっきりとは窺えない。ひかりは息を吐ききってから、こちらに向き直り、肩をすくめた。
「防犯のためにも、閉店後は勝手口の鍵を閉めておきましょう。アヤトには、朝九時以降に来るよう言い含めておくわ。それでいい?」
九時ごろなら、ひかりがすでに出勤している。大人がついていられる時間帯であれば、アヤトの出入りを拒む理由はない。
「はい」と、明日美は力なく頷いた。
「まねき猫」の二階に引っ越してくるつもりはなくとも、一刻も早く片づけて、どうにか寝起きができる状態にしなければ。でないと本当に、体がもたない。
帰宅するひかりと求を見送ってから店舗のシャッターを閉め、月の見えない空を振り仰ぐ。うつむくと余計に気が滅入りそうだと思ったが、上を向いてもため息がこぼれるばかりだった。
急げばまだ、ギリギリ終電に間に合うかもしれない。だけどもう、走れるほどの気力も体力も残っていない。どうせ明日もここに来るのだ。無理に帰ろうとはせずに、先日も泊まったネットカフェに行ったほうがいい。
こんなとき、二階で休めると楽だ。土曜の夜だけでも泊まれるようにしておけば、無駄に疲れなくて済む。
欠伸を噛み殺しながら、酔客もまばらになってきた通りをふらりふらりと歩いてゆく。一滴も飲んでいないのに、疲労のせいで足元がおぼつかない。腰とふくらはぎにシップを貼りたいが、ドラッグストアはすでに閉まっているだろう。
終電を諦めたのか、若者たちがコンビニの前にたむろして、南国の鳥のようにけたたましく笑っている。彼らから少し離れたところでは、腫れぼったい目をした初老の男が地べたに足を投げ出して座り、カップ酒を大事そうに啜っていた。
深夜営業の居酒屋に流れる余裕もなく、行き場を失った人、人、人。祭りの後のような侘しさが、町全体に漂っている。明日美だって帰るべき場所を見失ってから、もうずいぶん経つ。
アヤトは明日も、朝早くから「まねき猫」を訪れるんだろうか。勝手口の鍵は閉めてきたから、中には入れず、暑い中をさまよう羽目になるかもしれない。
子供は苦手だ。どうしたって、亡くした晃斗を思い出すから。でも決して嫌いなわけではないし、子供たちができるかぎり傷つけられないようにと願っている。
しょうがない。鍵を開けるために、明日も早起きをしよう。
そう決めて、明日美はたどり着いたネットカフェの個室で眠りについた。
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