〈九〉
一日の営業を終えると、腰が痛い。
体がまだ、立ち仕事に慣れていない。両脚も重だるく、触れてみなくてもふくらはぎが張っているのが分かった。
きしむ体をどうにか動かし、散らかり放題の床を掃き清めてゆく。
今日も客が途切れることはなく、要領の悪い明日美は散々に文句を言われた。一人絡み酒の男がいて、そいつが実にしつこかった。
心身共に疲れ果て、箒を持つ手も感覚が鈍い。そもそもこの箒は、なぜこんなにも短いのか。どうしても身を屈めなきゃいけなくて、よけいに腰がつらいじゃないか。
不満を胸に燻らせていたら、厨房から出てきた求に怒鳴られた。
「オバサン、もうそのへんでいいから、どいて。水撒いちゃうんで」
シンクの蛇口にはすでにホースが繋がれており、その一端を求が掴んでいる。どかなければ、問答無用で水をかける気だ。
機敏には動けずに、のろのろと脇へ移動する。求がすぐさま床に水を撒き、デッキブラシで擦りはじめる。
明日美はちり取りの中のゴミを持て余しつつも、ひとまず階段下の椅子に座った。いったん腰を落ち着けると、今度は立つのが億劫だ。このままどろりと、溶けてしまいたい。
客のいない「まねき猫」の店内も、煙草と揚げ油の残り香が漂い、気怠げだ。瞼がしだいに、重くなってきた。
「お疲れ様。これ、置いとくと硬くなっちゃうから食べて」
手早く洗い物を終えたひかりが、「はい」と机に皿を置く。二十代の求はともかく、見た目より歳を重ねていそうなひかりもスタミナがある。仕込みも含めるとかなりの長時間労働なのに、明日美よりよっぽど平気そうな顔をしている。
皿の上には、いなり寿司が二つ。食事の締めとしても、日本酒のつまみとしても、人気のあるひと品だ。
ちょうど小腹が空いていた。「ありがとうございます」と頭を下げて、明日美は添えられた割り箸を手に取る。
ひと口囓ると、おあげから甘辛い出汁がじゅっと滲み出た。中の酢飯には煎り胡麻が混ぜ込まれ、噛むたびにぷちぷち弾ける。少し甘めの味つけが、疲労の欠片を包んで溶かし去ってゆくようだ。ほんの少し、目が覚めた。
店との境の暖簾を上げて、ひかりが立ったまま煙草に火をつける。今さらながら、明日美は自分一人が座っていることに思い至った。
「あの、座りますか?」
「ううん、気にしないで」
壁に身をもたせかけ、ひかりが顔を背けて煙を吐く。仕事終わりの一服に、満ち足りた顔である。
「ねぇ、疲れてるみたいだけど、明日も来られる?」
そんなにも、疲れ果てて見えるのだろうか。ひかりの問いに、明日美はうっすらと笑みを浮かべる。じわじわと降り積もっていた疲労が、一気に蓄積した感じはたしかにある。
「大丈夫です。でもあの、一つ気がかりがあって」
箸を置き、居住まいを正して切り出した。今日の営業が終わったら、話をしようと思っていた。
「よそのお子さんを、誰もいない家に出入りさせるのはやっぱり問題があるんじゃないでしょうか」
今朝も感じた、アヤトについての危惧を伝える。
ひかりは、なにも言わない。でも眼差しが、先を促している。
それならばと、明日美は一気に言い募った。
「無人の店内でアヤトくんが怪我でもしたら、どう責任を取るつもりですか。最悪の場合、火を出してしまうかも。そうなると近隣にだって迷惑がかかるし、もう少し考えたほうがいいと思うんです」
そこまでの事態には至らなくとも、このコンプライアンス時代、人様の子供に関わるのには慎重になったほうがいい。場末の居酒屋に出入りさせていることが明るみになれば、文句をつけてくる輩がきっといる。