「もったいない」という大義名分の下
老父母が逝った後、この家の死蔵品を処分するのに一体いくら掛かるのだろうか……。溜まりに溜まったガラクタを前にため息をつく。
「高齢者はものを溜め込む傾向がある」と言われてはいるが、長きにわたり老母が牛耳ってきた我が家も言わずもがな。家中にあるものの7、8割は、すでにその存在さえも忘れられている死蔵品だ。
収納スペースには事欠かない田舎の一軒家。台所には3台の食器棚がドドドーンと置かれ、その中には床が抜けそうなほどの食器がぎっしりと詰め込まれている。ほとんど出番のない重箱から、一度も使った形跡がないお土産の湯飲み茶碗やコップに至るまで、その量といったら数えるのも恐ろしいほどだ。
ナイフやフォーク、スプーン、箸なども、晩餐会が開けそうなほどの数が引出しに押し込まれている。にもかかわらず、買い物に行くたびに、老母は割り箸やプラスチックのスプーンをもらって帰ってくる。
「お箸もスプーンも売るほどあるんだから、レジで訊かれたら要りませんって断ってよ」
言ったところで馬の耳に念仏。
大手パンメーカーの景品である白い食器も、「食器棚がたわむほどあるんだから、お皿はこれ以上必要ないでしょ」いくら言っても、「くれるって言うんだから、もらってきて何が悪いの」シールをせっせと集めて交換してくる。
そのほかにも、買い換えた際にさっさと処分すればいいものを。なぜだか、電気ポットに電気炊飯器、コーヒーメーカーにホットプレートと、永遠に使わないであろう(使えない)家電が何台も物置の一角で埃をかぶっている。
「壊れた家電をいつまでも取っておいてどうするの?」
「いつか使うかもしれないと思って」
予想通りの答えが返ってくる。
「壊れて使えなくなったから新しいのを買ったんでしょ」
「そうだけど」
「だったら、もう使わないんじゃないの」
こうした不毛な会話も日常茶飯事。
老母のいないときを見計らってこっそり処分しようものなら、「勝手に捨てた。勝手に捨てた!」と天地がひっくり返ったように大騒ぎをする。
そして、「もったいない、もったいない」と大義名分を振りかざす。
食べもしないものを大量に買ってきては捨てる、大量に作っては食べきれずに捨てる、を繰り返している人が、「もったいない」なんてよく言えたものだと思うが、認識の違う者同士が言い合ったところで、永遠に平行線。労力と時間の無駄としか言いようがない。