(撮影:本社写真部)

 

 

 

 階段下の机に肘をつき、アヤトの母親、柊(ひいらぎ)ユリエがぐったりとうなだれている。

 ひかりに事情を話してひとまず中に入ってもらい、心当たりに電話をかけさせた。

 アヤトと仲のいい友達の家、区立図書館、区民センター。いずれにも、アヤトはいないようだった。

「鯖の塩焼き、上がったよ」

 カウンターに、料理の皿が置かれる。求が「ちょっとそのへん、捜してくる」と飛びだして行ったから、厨房はひかりのワンオペだ。「タクちゃん」までその後について出て行き、そのせいで料理の提供が遅れている。これ以上客を待たせるわけにいかないと、慌てて運んだ。

 壁掛け時計に目を遣れば、長針はさらに進んで八時半。アヤトはどこに行ってしまったのか。さっきから心臓の音が鼓膜にまで反響して、やけにうるさい。

「ねぇ、ちょっと」

 ひかりに手招きをされ、カウンターに駆け寄る。ロンググラスに、ウーロン茶を注いだものを差し出された。

「これ、ユリエさんに出してあげて」

 ユリエへの気遣いなど、頭から抜けていた。思い出されるのはただ、行方知れずの晃斗を捜し回っていたときの、突き上げてくるような不安だった。

 グラスを受け取った手が、小刻みに震えている。どんなに走っても大きな声で名前を呼んでも、愛しい息子を見つけることはできなかった。あのときにはもう、晃斗は足を滑らせて用水路に流されていたのだ。

 まるで自分が溺れているかのように、息が苦しい。その光景を見たわけではないのに、川に流れ着いて浮かんでいる晃斗の姿が脳裏をよぎる。最期に抱きしめてあげることもできなかった我が子の顔がちらちらと揺らめいて、アヤトの面影と重なった。

 このあたりで川といえば、一級河川荒川(あらかわ)だ。河川敷はグラウンドや公園になっており、子供たちの遊び場でもある。だだっ広く、雑草が丈高く茂っている場所もあり、子供が一人足を滑らせ水に落ちても、気づかれないかもしれない。

 晃斗、ああ晃斗。お願いだから、無事でいて――。

「顔、真っ青よ。上で休んだほうがいいんじゃない?」

 ひかりの呼びかけに、ハッと顔を上げる。周囲の喧騒が、戻ってきた。「すみませーん」と手を挙げている客がいる。

「はい、なに?」とひかりが声を張り上げ、客がホッピーの「ナカ」を注文する。

「悪いけど、手が足りないからリレーして」

 小ぶりのグラスに注がれた焼酎が、カウンターの客から次の客へと手渡されてゆく。その様子を眺めながら、明日美はエプロンをした胸元を握りしめて呼吸を整えた。

 過去と現在とがごっちゃになって、危うく取り乱すところだった。今、行方不明になっているのは、晃斗じゃない。しっかりしろと、自分に言い聞かせる。

 それよりも、ユリエだ。彼女は今まさに、当時の明日美と同じ不安に胸をかき乱されている。きっと、必死で正気を保っている状態に違いなかった。

「もう、平気です」

 気遣わしげな目を向けてくるひかりに薄く微笑み返し、ユリエのもとにウーロン茶のグラスを運ぶ。明日美が近づいてもユリエはうなだれたまま動かなかったが、机にグラスを置いてやるとようやく顔を上げた。

「これ、よかったら」

「ありがとうございます」

 それでも、グラスに手を伸ばそうとはしない。喉の渇きを自覚するほどの、余裕がないのだと分かる。

 こんなときは、かける言葉が見つからない。自分だって、周りの人たちが発する慰めの言葉など、少しも耳に入らなかった。

 だから、なにも言わずにユリエの肩を撫でる。無意識に強張っているであろう体を、わずかでもほぐしてやりたかった。

「すみません。いつも、ご迷惑ばかりおかけして」

「迷惑なんかじゃ、ありませんよ」

 この場にアヤトを受け入れたのは、明日美ではない。彼を思う人たちの気持ちを代弁して、答えた。

「でもお母さんは、一度家に戻ったほうがいいと思います。アヤトくんが、帰っているかもしれませんから」

「ああ、はい。そうですね。すみません、気がつかなくて」

 椅子を鳴らして、ユリエが慌てて立ち上がる。謝り癖のある人なのかもしれない。明日美はその肩を、今度は強く掴んだ。

「それで、もしアヤトくんが戻っていなかったら、警察に相談しましょう」

 アパートの部屋には固定電話を引いておらず、アヤトにもスマホの類は持たせていないという。ユリエにはいったん帰宅してもらわないと、次の対策が立てられない。

「警察、ですか」

 ユリエの声は、掠れている。そんな大ごとにしていいのだろうかという、驚きと迷いが窺えた。

 よく分かる。明日美だって、警察を呼ぶのはまだ早いのではないかと躊躇って、通報が遅れた。あのとき思いきって行動していれば、晃斗が用水路に落ちる前に見つけることができたのかもしれなかった。