〈十〉
待ち人というのは、来ないものだ。待っていなければ不意打ちで来るが、期待したとたんに来なくなる。七時前から「まねき猫」で待機していたのに、アヤトが顔を見せたのは昼を過ぎてからだった。
約束したわけじゃないのだから、べつにいい。お陰で二階の片づけが進んだ。階段側から見て奥の部屋はまだ手をつけていないが、手前の部屋は新しい布団さえ用意すれば寝泊まりできる。
だから早起きも、無駄じゃなかった。自分にそう、言い聞かせている。たぶん、あてが外れたのを残念に思っているせいだ。
アヤトが店に出入りすることをよく思っていなかったはずなのに、どういった心境の変化だろう。自分で自分が、よく分からない。アヤトの笑顔を見ると胸がかき乱されて苦しいのに、訪れがないと、なにをしているんだろうとやきもきする。
「まねき猫」の営業中にやってきたアヤトは、熱々の鶏唐揚げとご飯でお腹を満たすと、宿題もせず「遊びに行ってくる!」と飛びだしていった。その瑞々しさが好もしく、気がつけば眩しげに見送っていた。
あの子はまだ、体の節々が痛むという感覚は分からないんだろうな。
そんなことを考えながら、明日美は慣れない給仕に励む。今日もけっきょく、寝不足だ。まともに休息を取れておらず、頭の中までぼんやりしている。単純なおつりの計算すら間違えて、客に「おいおい」と呆れられた。
「アンタ、いつまで経ってもミスばっかだなぁ」
日が暮れてから現れた「タクちゃん」が、小姑のような厭味を言ってくる。客として来たはずで、酒肴を楽しんでもいるのに、「ほい、ご注文の品だよ」と、周りのテーブルに料理を配っている。常連だから金額が頭に入っているらしく、会計も早かった。
「そんなに経っていません。今日で四日目です」
「はいはい。お手伝いできて、偉い偉い」
すっかり馬鹿にされている。でも「タクちゃん」は、店にとってはありがたい存在だ。人手の足りないときはホールに入ってくれ、しかも「年金もらってっから」と言って報酬を受け取ろうとしない。ただ働きをさせているという後ろめたさがあるせいで、こちらも強くは出られなかった。
皆それぞれに、「まねき猫」を残そうと協力している。この店がなくなると、困る子供がいるからだ。「宮さん」が返済期限などあってないような条件を設けて大金を貸してくれたのも、そのためだろう。
時次郎が広げた輪だと思うと複雑な気分だが、立派な志には違いない。その一方で、これはただの居酒屋がやるべきことなのかという疑問も残る。
親が必死に働いているにもかかわらず、子供たちが餓えるのは、明らかに行政の失敗か怠慢だ。たまたま目についた一人や二人に食事を与えたところで、根本の問題は解決しない。本来は、国家レベルで対処すべき事態ではないか。
そんなことを漠然と考えていたら、厨房の求に「ちょっと、オバサン!」と呼ばれた。
「料理できてるから、早く持ってって」
ぼんやりしている暇はない。カウンターでジョッキを傾けている「タクちゃん」が、またも小馬鹿にしたような笑みを見せた。
悔しいが、冷めないうちに運ばなければ。ハムカツは、外の客。オーダーはちゃんと覚えている。
開け放したままの出入り口を抜け、ホッピーケースを重ねたテーブルに皿を置く。
「百九十円です。こちらからいただきますね」
テーブルの隅には、百円玉二枚が置かれていた。ポケットから取り出した十円玉と引き換えに、それを受け取る。「タクちゃん」には舐められているものの、初日よりマシになったはずである。
「あの、すみません」
店内に戻ろうとしたら、背後から声をかけられた。振り返ると、髪を後ろで一つに束ねた女性が立っている。
見たところ、明日美より少し若そうだ。女性の一人客とは、珍しい。
「はい、いらっしゃいませ」
「あ、違うんです」
女性はなぜか、息を弾ませている。走ってきたのかと不審に思っていたら、首を横に振ってこう続けた。
「うちのアヤト、来ていませんか」
「もしかして、アヤトくんの――」
皆まで言わずとも、相手はこくりと頷いた。言われてみれば、目元が似ていなくもない。アヤトの、母親だ。
「いつもお世話になっております。それであの、アヤトは?」
縋るような眼差しで迫られて、明日美はたじろぐ。不吉な予感に、胸が騒ぎはじめた。
「まさか、まだ帰っていないんですか?」
すでにもう、八時を過ぎている。小学三年生が一人で出歩くには、遅い時間だ。
アヤトの母親の瞳が、涙で潤む。
他人事とは思えずに、明日美の視界もわずかに揺れた。