「気が引けるなら、私が通報します。ひとまず家に帰ってみて、アヤトくんがいたかどうか、ご連絡いただけますか」

 そう言いながら、明日美はエプロンのポケットからスマホを取り出す。連絡先の交換を申し出ると、ユリエも「あ、はい」と自分のスマホを握り直した。

 互いの番号を交換し、保存する。そのとたん、ユリエのスマホが鳴りだした。

 明日美がかけたわけじゃない。ちらりと見えた着信画面には、『みっくんママ』とある。アヤトの友達の、母親だろうか。

「はい、もしもし。えっ、本当ですか! どこに?」

 狼狽えながら電話に出たユリエの声が、一オクターブ高くなる。強張っていた頬が、ゆっくりと持ち上がってゆくのが分かった。

「見つかったんですか?」

 通話が終わってから、尋ねてみる。ユリエは「はい!」と喜色を浮かべつつも、複雑な表情を作った。

「あの、団地でかくれんぼをしていて、そのまま忘れられていたみたいで――」

 このあたりで団地といえば、駅向こうのマンモス団地だ。一つの町とも言えるほどの広大な敷地に集合住宅が林立しており、近年では老朽化を理由に建て替えも進んでいる。保育園や幼稚園、小学校まで併設されているようなあの場所でかくれんぼなどしたら、容易には見つけられないはずだ。

 だからといって見つからない友達を、放置して帰るなんて悪意がある。アヤトもアヤトで、頃合いを見て帰ってくればいいものを。友達を信じて、馬鹿正直に待っていたのか。

「とりあえず、迎えに行ってきます。団地に住んでる子のお母さんが、保護してくれたらしいので」

「『保護してくれた』じゃないわよ。謝りに来させなさいよ」

 店との境の暖簾を掻き分けて、ひかりがぬっと顔を出す。スマホの着信音が聞こえたから、様子を見ようと厨房を出てきたのだろう。

「でも、直接会ったことのない人たちで――」

 なんでも団地の子は、アヤトの友達の「みっくん」と仲がいいらしい。「みっくん」が習い事を通じて知り合った彼らと遊ぶ約束をしており、そこに今日はアヤトも交ぜてもらったようだ。小学校の学区が違うから、ユリエは面識がないという。

 だったらなおさら責任を感じてもらうべきだと思うが、ユリエはいても立ってもいられないようで、勢いよく頭を下げた。

「すみません、行ってきます」

 客の間を縫うようにして、通りへ駆け出してゆく。その後ろ姿を、明日美は羨望の眼差しで見送った。

 彼女の向かう先には、五体満足な息子の笑顔が待っているのだ。そう思うと、不覚にも嗚咽が込み上げた。

 

 ひかりや求から後日聞いたところによると、子供たちが広大な敷地でかくれんぼを始めたのは、そもそもアヤトを仲間外れにするのが目的だったという。

 理由は、「アヤトくんだけSwitchを持ってないもん」だった。ポータブルで遊べるゲーム機だが、設定すれば複数人でも遊べる。それを皆でプレイしたところ、普段からゲームに慣れ親しんでいないアヤトは下手で、「冷める」と嫌がられてしまった。

「あいつ、撒いちゃおう」と言いだしたのは、団地の子。「みっくん」にとっても、いつでも遊べるアヤトより、ゲームの上手い新しい友達のほうが魅力的だったのだろう。

「途中で諦めて、家に帰ると思ったんだよ」

 母親に連れられて次の日に謝りにきた「みっくん」は、不貞腐れたようにそう言った。アヤトは「本当にそうだね。ごめん」と、にっこり笑って許したそうだ。

 翌週の土曜日も、アヤトは「まねき猫」の営業時間内にやって来た。一週間ぶりに会った彼の宿題を見てやりながら、明日美は思いきって聞いてみた。

「『みっくん』とはその後、仲良くやれてるの?」

 鉛筆を握る小さな手が、ぴたりと止まる。軽く目を泳がせてから、アヤトは「まぁね」と答えた。

 このぶんだとまだ、わだかまりがありそうだ。それなのに怒りを前面に押し出さず、「みっくん」とは友達づきあいを続けている。

 今どきの小学生って、こんなにドライなものなのか。明日美が子供のころは、ちょっと気に入らないことがあると泣き喚き、「絶交だ!」と言い合っていたように思う。

「悔しくないの?」

 重ねて尋ねると、アヤトは「うーん」と考えたあとでこう言った。

「ゲームも買ってあげられなくてごめんねって、ママが泣くほうがつらいから」

 ああ、そうか。腑に落ちた。

 自分が悔しがると、ユリエはますます胸を痛める。だから、大したことじゃないよと伝えたくて、アヤトは「みっくん」を笑顔で許したのだ。いつも謝ってばかりいる母親の、心を軽くしたい一心で。

 本当は猛暑にエアコンがないとつらいだろうし、ゲームだって買ってもらいたいだろう。でも駄々をこねたところで、ユリエを苦しませるだけと分かっている。なにせ家には、お金がないのだ。

 アヤト自身もまた、己の力ではどうにもできない貧困と戦っている。こんなにも、優しい方法で。

 止まっていた鉛筆が、再び動きだす。漢字の書き取りの宿題だ。強い筆圧で、『自由』といくつも書き連ねた。

 明日美は思わず手を伸ばし、少し脂っぽいその頭をかき回すようにして撫でた。

 

たそがれる、坂井家のうめ様(写真提供:坂井さん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

坂井希久子さんの小説連載「赤羽せんべろ まねき猫」一覧

 


『何年、生きても』好評発売中!

ベストセラー『妻の終活』の著者が贈る、永遠の「愛」の物語。
優柔不断な夫に見切りを付け、家を出て着物のネットショップを営む美佐。実家の蔵で、箪笥に隠された美少女の写る古写真を見つけ……。