「姉の生活費のために」

ホテルには時々、女学校で仲良しだった桑島貞子が遊びに来ました。電話室は立ち入り禁止なので、休憩室で寝転んで話に興じました。桑島は女学校を卒業後、四年間薬剤師の勉強をしました。厳しい母からは「女は働かなくてもよろしい」と猛反対されたそうですが、それでもがんばって資格を取りました。

軍医と結婚し、一緒に中国にわたりますが、夫はフィリピンで戦死します。桑島はひとり、大連から日本に引き揚げました。桑島は百歳を超えた今も現役の薬剤師として働いていて、兵庫県内の最高齢薬剤師として表彰されたそうです。若い頃から、働く女性として自立することを目指した桑島と仁子は、それぞれ歩んだ道は違いますが、生涯にわたって親しい友達であり続けたのです。

『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(著:安藤百福発明記念館/中央公論新社)

さて、ホテル勤めの仁子は相変わらず、自分の給料で両親との生活を支えていました。給料日になると、電話室に直接家から電話がかかってきます。「姉(澪子)や母から、お米がないと電話あり、急ぎ帰宅す」とあり、世話になっている有元家も窮状にあったことが分かります。

茶道のお稽古ごとで着物が必要になりましたが、手元にありません。ところが、京都の東大路三条に大変親切な呉服屋さんがあり、「ツケでいいから」と反物を分けてもらいました。仁子は仕事の合間に大急ぎで縫い上げました。たった一着の晴れ着でした。それも一度、お稽古ごとに着たきりで、またもや「姉の生活費のために」入質してお金を作らざるを得なくなってしまうのです。