百福との出会い
世の中には、不穏な空気が漂い始めていました。
1937(昭和12)年、日中戦争が始まりました。
二年後の1939(昭和14)年には、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発しました。戦火が世界中に広がり始めたのです。
そしてついに、1941(昭和16)年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入。
翌年7月27日、父重信が亡くなります。七十二歳でした。
この日から、いよいよ須磨と仁子、女二人の生活が始まるのです。戦時下でさぞ心細かったことと想像できますが、その時、仁子は心に誓いました。
「これからは、母に、食べ物の苦労だけは絶対させない」と。
ある時、仁子の働きぶりがホテルの社長の目に留まりました。電話交換業務での行き届いた対応に感心した社長は、仁子をフロント係に抜擢したのです。立ち入り禁止の閉ざされた電話室から解放され、制服に身を包んだ仁子は、格式のある都ホテルのフロントに立つことになったのです。
そこで、百福と出会います。
引き合わせてくれたのは元陸軍中将の井上安正という人でした。
百福は義理堅く、やさしい仁子に一目ぼれしてしまいます。その時、百福は三十四歳。企業家としては若手でしたが、大阪の実業界では、ちょっと名が通っていました。仁子は仕事に未練があったのか、いったん結婚を断りました。
仕事では押しの強い百福も、こと初対面の女性にはシャイなところがありました。知り合いに相談すると「好きなら、攻めて攻めて攻めぬけ」とけしかけられます。百福の思いが通じて、ようやく交際が始まりました。仁子にとって、初めてのロマンスでした。
しかし、戦局はどんどん悪化し、米軍の日本本土への攻撃が激しくなってきます。1945(昭和20)年3月13日、第一次大阪大空襲で市街地はほぼ焼き尽くされます。
そんな状況の中で恋が実りました。先行きがどうなるか分からないという不安が、二人の心を急激に結びつけたのです。大空襲の八日後、二人は戦火の合間を縫うようにして、京都の都ホテルで結婚式を挙げました。戦時中、女性が街を歩く時は必ずモンペをはくように命じられていたので、姉の澪子らは家からホテルまではモンペ姿で歩いて行き、ホテルに着いてから晴れ着に着替えました。
百福三十五歳、仁子二十八歳です。
仁子は結婚と同時に、十年間勤めた都ホテルを退社しました。新居を大阪府吹田市千里山に構えました。そこで、百福の妻として新しい人生を歩み始めます。