我ながら、ほだされていると思う。「まねき猫」を残すのも手伝うのも、半ば強制されてのことで嫌々だったはずなのに、進んで二階に暮らしはじめるなんて。
笹塚のアパートを解約していないのがせめてもの抵抗ではあるけれど、お金がもったいないし、どうしたものかと迷っている。
「他の宿題は?」
「もう全部終わっちゃった」
あとは絵画を残すのみ。ダブルワークをしている母親のユリエには、時間的にも金銭的にも余裕がない。どこか近場で楽しめるところはないだろうかと、明日美はスマホを手に取った。
「えっ、九時?」
ホーム画面の表示を見たとたん、声が裏返る。まさか、アラームをかけ忘れて寝てしまったのか。
「大変!」
明日美は膝にかかっていたタオルケットを蹴り上げて、立ち上がった。
コールセンターのシフトは午前十一時から。九時起きでも遅刻をすることはないが、今日は違う。火曜日で、しかも時次郎の転院日だ。
急性期病院から、回復期リハビリテーション病院へ。つまり病状が落ち着き、命の危険は去ったと判断されたのだろう。
リハビリをしても、左半身の痺れは取れることがないと言われている。あとは、脳機能がどこまで戻るかだろうか。口からものが食べられなければ、胃ろうをすすめられるかもしれない。
ともあれそれは、転院してからのこと。迎えの車は、十時には来るという。その前に退院の手続きがあり、二十分前には来院するよう言われていたのに。
「なんで、目覚ましかけ忘れるかなぁ」
おざなりに顔を洗い、化粧水を叩き込む。着替えを済ませて階下に向かうと、アヤトはすでにリュックを傍らに置き、ホッピーケースの上にちょこんと座っていた。
「ごめん。オバちゃん出かけるけど、アヤトくんどうする?」
「じゃあ、図書館にでも行こうかな」
「お昼は?」
尋ねると、アヤトはリュックから三割引きのシールが貼られたメロンパンの袋を取り出した。
それだけじゃ、いかにも物足りない。明日美は時計を睨みつつ、厨房に入る。
「ちょっと待って、簡単なもの作るから」
ぐずぐずしていると間に合わないが、アヤトの胃袋を放っておけない。タクシーを捕まえればいいと割り切って、業務用の冷蔵庫を開ける。
さて、どうしたものか。外気温が高いから、生ものを持たせるわけにはいかないし――。
「あ、そうだ」
ふと思いつき、明日美は大振りの保存容器を手に取った。
中身は甘辛く煮た油揚げだ。「ちょっと時間が経って食感落ちちゃってるけど、よかったら食べて」とひかりに言われていた。
稲荷ずしならすぐできそうだ。でも肝心のご飯が炊けていない。だったらあれだと、冷凍庫の引き出しに手をかける。
休みの日に手軽に食べられるようにと、冷凍チャーハンを買ってあった。これをチンして、詰めてしまおう。
髪を振り乱しながら、作業にかかる。自分が食べる分も作っておこうと手を動かしていたら、思いのほかたくさんできた。
アヤト用に四つ取り分けて保存容器に詰め、あとはお皿にラップをかけ冷蔵庫に入れておく。洗い物は――帰ってからでいいか。
そう割り切って、手を洗う。そろそろタイムリミットだ。
「はい、これ持ってって。一緒に出よう」
保冷剤と共に保存容器をハンカチに包み、アヤトのリュックに入れてやった。ついでにカウンターに置いてある、自分のバッグの中身も検める。
印鑑に、時次郎の健康保険証と各種身分証。入院費用はクレジットカードで支払えるはずだから、まとまった現金はなくても大丈夫。
よし、行こう――と顔を上げたのと、店舗のシャッターがカタカタと揺れ、外から開けられるのが同時だった。
「えっ!」
明日美は目を見開く。ガラス戸越しに、見慣れた顔が並んでいた。