〈十一〉
爽やかな風が頬を撫でる。涼しくて、肌はさらりと心地よい。大地に身を投げ出して、明日美はゆっくりと体の力を抜いてゆく。
まるで、無重力空間にいるみたい。浮遊感に包まれて、心まで解放されてゆく。
風が吹く。次第に強く、冷たく吹く。コォォォォと唸る音まで聞こえてきて、首筋にぞくりと寒気を感じる。
「イッキシ!」
くしゃみと共に、目が覚めた。
木目のある天井から、蛍光灯の傘が下がっている。煙草のヤニが付着した、古めかしい照明器具だ。覚醒しきっていない頭で、ここはどこだろうと考える。
「あ、起きた?」
「わっ!」
足元でふいに声がして、飛び起きた。
折り畳み式のテーブルに肘をつき、鉛筆片手にアヤトが微笑みかけてくる。
「びっくりした。来てたなら声かけてよ」
「かけたけど、起きなかったから」
明日美はぶるりと身を震わせる。Tシャツから突き出る腕を撫でてみると、鳥肌が立っていた。
昨夜はエアコンのタイマーをかけて寝た。でも電源が切れたとたんに蒸し暑くて、真夜中につけ直したのは覚えている。体が冷えすぎては困るから、設定温度は二十八度だったはず。それにしては、寒すぎる。
「わっ、二十一度になってる」
リモコンを手元に引き寄せ、驚いた。間違っても自分では設定しない温度である。
「だから、エアコン下げていいって聞いたのに」
「無理無理、寒すぎ。オバサンの冷えやすさなめるんじゃないよ」
ピピピピと、設定温度を上げてゆく。断熱効果の薄い木造の一軒家は、エアコンの効きも悪い。それでも明日美の体には、二十八度で充分だ。
「座っていて汗ばまないくらいの温度でいいのよ、こういうのは」
そう言って、布団の上にリモコンを放り出す。「まねき猫」の二階の、六畳間である。
明日美は胡坐のままうんと伸びをして、アヤトに向かって身を乗り出した。
「なに、絵でも描いてるの?」
テーブルの上には、四つ切りの画用紙が広げられている。そういえば夏休みの宿題には、絵画もあるんだったか。
「真っ白じゃない」
「うん。なにを描こうかなと考えてて」
「テーマはあるの?」
「えっと、夏休みの思い出」
「ああ」
利き手に鉛筆を握ったまま、アヤトが絵を描きあぐねているわけが分かった。夏休みといっても、どこに出かけるわけでもない。すでにお盆も過ぎたというのに、彼の肌は白かった。
かくれんぼで仲間外れにされて以来、「みっくん」と遊ぶ機会も減ったようだ。必然的に、「まねき猫」で過ごす時間が長くなっている。
これ以上、彼の居場所を奪っちゃいけない――そう思ったから、勝手口の鍵は従来通り開けっ放しにしておくと決めた。防犯上のリスクは、誰かが家にいることで減らせる。つまり、明日美がいればいいのである。
どのみち笹塚のアパートと「まねき猫」、二つの拠点を行き来するのは体力的にしんどいと思っていた。土曜の夜だけと言わずここに住んでしまえば、負担はかなり軽減する。
ついでに週に一日は完全休日を作りたいと、「まねき猫」の定休日である火曜をそれと定めた。比較的シフトの自由が利く、コールセンター勤務の利点である。土日は「まねき猫」で働き、火曜以外の平日は会社に出勤するという、新たなローテーションにも慣れてきたところだった。
「動物園にでも、行ってみる?」
ぴくりとも動かない鉛筆の先を見ながら、尋ねてみる。アヤトは不思議そうに首を傾げた。
「なんで、動物園?」
「さぁ、なんとなく」
「変なの」
そう言って、アヤトは笑った。