脳出血で父が倒れた――。離婚時に、折り合いの悪い父・時次郎との同居を選ばず、この10年連絡すら取り合っていなかった42歳の明日美。実家からは勘当されとっくの昔に母に逃げられている父にとって、一人娘である明日美は唯一の身内であり、入院先の看護師から留守電が入っていた。久しぶりに赤羽駅へ降りたち、病院に駆けつける明日美だったが……。

      

       〈十一〉

 

 爽やかな風が頬を撫でる。涼しくて、肌はさらりと心地よい。大地に身を投げ出して、明日美はゆっくりと体の力を抜いてゆく。

 まるで、無重力空間にいるみたい。浮遊感に包まれて、心まで解放されてゆく。

 風が吹く。次第に強く、冷たく吹く。コォォォォと唸る音まで聞こえてきて、首筋にぞくりと寒気を感じる。

「イッキシ!」

 くしゃみと共に、目が覚めた。

 木目のある天井から、蛍光灯の傘が下がっている。煙草のヤニが付着した、古めかしい照明器具だ。覚醒しきっていない頭で、ここはどこだろうと考える。

「あ、起きた?」

「わっ!」

 足元でふいに声がして、飛び起きた。

折り畳み式のテーブルに肘をつき、鉛筆片手にアヤトが微笑みかけてくる。

「びっくりした。来てたなら声かけてよ」

「かけたけど、起きなかったから」

 明日美はぶるりと身を震わせる。Tシャツから突き出る腕を撫でてみると、鳥肌が立っていた。

 昨夜はエアコンのタイマーをかけて寝た。でも電源が切れたとたんに蒸し暑くて、真夜中につけ直したのは覚えている。体が冷えすぎては困るから、設定温度は二十八度だったはず。それにしては、寒すぎる。

「わっ、二十一度になってる」

 リモコンを手元に引き寄せ、驚いた。間違っても自分では設定しない温度である。

「だから、エアコン下げていいって聞いたのに」

「無理無理、寒すぎ。オバサンの冷えやすさなめるんじゃないよ」

 ピピピピと、設定温度を上げてゆく。断熱効果の薄い木造の一軒家は、エアコンの効きも悪い。それでも明日美の体には、二十八度で充分だ。

「座っていて汗ばまないくらいの温度でいいのよ、こういうのは」

 そう言って、布団の上にリモコンを放り出す。「まねき猫」の二階の、六畳間である。

 明日美は胡坐のままうんと伸びをして、アヤトに向かって身を乗り出した。

「なに、絵でも描いてるの?」

 テーブルの上には、四つ切りの画用紙が広げられている。そういえば夏休みの宿題には、絵画もあるんだったか。

「真っ白じゃない」

「うん。なにを描こうかなと考えてて」

「テーマはあるの?」

「えっと、夏休みの思い出」

「ああ」

 利き手に鉛筆を握ったまま、アヤトが絵を描きあぐねているわけが分かった。夏休みといっても、どこに出かけるわけでもない。すでにお盆も過ぎたというのに、彼の肌は白かった。

 かくれんぼで仲間外れにされて以来、「みっくん」と遊ぶ機会も減ったようだ。必然的に、「まねき猫」で過ごす時間が長くなっている。

 これ以上、彼の居場所を奪っちゃいけない――そう思ったから、勝手口の鍵は従来通り開けっ放しにしておくと決めた。防犯上のリスクは、誰かが家にいることで減らせる。つまり、明日美がいればいいのである。

 どのみち笹塚のアパートと「まねき猫」、二つの拠点を行き来するのは体力的にしんどいと思っていた。土曜の夜だけと言わずここに住んでしまえば、負担はかなり軽減する。

 ついでに週に一日は完全休日を作りたいと、「まねき猫」の定休日である火曜をそれと定めた。比較的シフトの自由が利く、コールセンター勤務の利点である。土日は「まねき猫」で働き、火曜以外の平日は会社に出勤するという、新たなローテーションにも慣れてきたところだった。

「動物園にでも、行ってみる?」

 ぴくりとも動かない鉛筆の先を見ながら、尋ねてみる。アヤトは不思議そうに首を傾げた。

「なんで、動物園?」

「さぁ、なんとなく」

「変なの」

 そう言って、アヤトは笑った。