(撮影:本社写真部/撮影協力:桜商店603)

 

 

 単純な発音だからか、なぜか「鬼」だけははっきりと聞こえる。詰(なじ)られても、勝手なことはできない。

「らいて、もういい、らいて!」

 次の要求がきた。「出して」だ。ここから出してくれと言っている。

「できるわけないでしょう。自分で動けないし、ご飯も食べられないんだよ」

「らいてよぉぉぉ!」

 時次郎は何度でも、同じ言葉を繰り返す。明日美の顔を見ると、「水くれ」と「出して」しか言わない。

 可哀想だとは思うけど、他に言うべきことはないのか。時次郎が倒れて、明日美の生活は一変した。「宮さん」への借金があるからと「まねき猫」の存続を余儀なくされたり、貧困家庭の子供の面倒を見たり、自分自身も度重なる出費に悩まされたり。お金だけでなく、時間も手間もかかっている。

 せめて「面倒をかけてすまない」のひと言でもあれば、少しは救われるだろうに。娘と認識されないばかりか、「鬼!」とまで言われては、こっちだって遣りきれない。

「らいて、らいて、みう!」

 受け答えをしても、無駄なこと。明日美がいるかぎり要求は続くから、周りの迷惑を鑑みて、今日のところはもう帰ることにした。

 新しい病院は、赤羽駅までバスを使うことになる。たまたま空いていた席に座り、明日美は大きく息をついた。

 出血によって侵されてしまった時次郎の脳は、この先どれほど回復するのだろう。年輩の担当医は、「脳細胞が、どの程度生き残っているかによりますね」と話していた。

 それによって、リハビリの効果の出かたも変わる。言語や記憶が、どのくらい戻ってくるのか。今のままでは、会うたびにどっと疲れてしまう。

 もう一度息をついて、明日美はスマホを手に取った。そういえば、ビデオレターのことを忘れていた。

 あれを見せたところで、時次郎には理解できないだろう。意識を取り戻したばかりのときに「夏休み」と呟いたっきり、「まねき猫」のことは忘れてしまったのか、なにも言わない。口を開けば「水くれ」「出して」の繰り返しだ。

 面会ができないせいで、「タクちゃん」たちは時次郎の現状を知らない。ショックを受けるだろうから、明日美もあえて伝えていない。彼らは無邪気に、時次郎の回復を信じている。

 どんなに期待したって、もう元のようには戻らないのに――。

 回復期リハビリテーション病院の入院期間は、百五十日まで。高次脳機能障害と診断されれば、それが百八十日まで延びる。五ヵ月後か、六ヵ月後までには、次の受け入れ先を見つけなければいけない。

「前の病院の担当者様から、退院後は施設への入居をお考えと伺っておりますが、間違いありませんか?」

 先ほど転院の手続きを手伝ってくれた病院のスタッフから、そう聞かれた。明日美はやっぱり、「在宅は難しいです」と答えた。後日、今の病院の地域連携室から連絡がくるそうだ。

 スマホで試しに、近場の介護施設を検索してみる。特養と呼ばれる特別養護老人ホームと、介護付き有料老人ホームの違いがまだよく分かっていない。どうやら前者が公的施設で、後者は民間施設のようだ。費用は当然、民間の介護付き有料老人ホームが高い。

 でも比較的料金が安い特養は、待機者数も多いと聞く。手ごろな施設が、すんなりと見つかるものなのだろうか。

 考えれば考えるほど、頭が痛い。側頭部を手で押さえると、髪の毛が脂っぽかった。

 寝坊をしたせいで、そういえばお風呂に入りそびれていた。

 

「まねき猫」の居住部には、風呂がない。

 銭湯は自転車で通える範囲にいくつかあるものの、営業時間が昼の遅い時間からだ。しかも夜は、「まねき猫」を閉めてからでは間に合わない。

 ならばと明日美は、駅前のフィットネスジムに入会した。そこならジャグジーを備えたお風呂だけでなく、サウナまであり、六十分会員なら月額五千四百円と割安だ。

東京都の銭湯の入浴料金はじわじわと値上がりして、大人が五百二十円。月額で考えると、それよりうんと安くつく。

 赤羽駅でバスを降り、明日美はそのままジムへと向かった。タオルはレンタルがあるし、シャンプーや化粧水などのアメニティも充実している。会員証さえあれば、手ぶらで行ってもなんら困ることはない。

 広い湯船に手足を伸ばし、サウナで軽く汗をかいたら、幾分気持ちがさっぱりした。ついでにお腹も減ってきた。

 起きてから、なにも食べてないもんね。

 それでも空腹を感じないくらい、気が張り詰めていたみたいだ。なにか、食べて帰ろうか。いいや、ここは節約だ。「まねき猫」に帰れば、作り置きの稲荷ずしがある。あとは賞味期限の怪しいものを、お腹の中に入れて処分してしまおう。

 短い髪をドライヤーでさっと乾かし、女性用の更衣室を出る。入館から、四十五分。トレーニングはなにもしていないが、妙な充実感がある。