脳出血で父が倒れた――。離婚時に、折り合いの悪い父・時次郎との同居を選ばず、この10年連絡すら取り合っていなかった42歳の明日美。実家からは勘当されとっくの昔に母に逃げられている父にとって、一人娘である明日美は唯一の身内であり、入院先の看護師から留守電が入っていた。久しぶりに赤羽駅へ降りたち、病院に駆けつける明日美だったが……。

      

       〈十二〉

 

 病院の受付にたどり着いたのは、指定された時刻を十分もまわってからだった。

「すみません、遅くなりました!」

 謝りながら、差し出された書類に必要事項を書き込んでゆく。それと引き換えに、転院先に提出するべき封筒や、検査結果の画像データが入っているCD-Rを受け取った。

「あちらに自動精算機がございますので、入院費用をお支払いください」

 案内どおり、精算機に診察券を通してみる。提示された金額に、つかの間意識が遠のいた。

 限度額適用認定証を提示しているから、ひと月の支払額は自己負担限度額までなのだが、時次郎の所得区分は現役世代並みだ。しかもオムツ代などはまた別にかかる。請求額は、明日美の月収の半分を超えている。

 困ったことに時次郎の預金口座の、暗証番号が分からない。年金などもそこに振り込まれているようだが、引き出しようがないのである。銀行の窓口に問い合わせてみたら、たとえ血縁者であっても成年後見人でなければ口座の管理は任せられないと突っぱねられてしまった。

 痛い出費に心の中で泣きながら、明日美は精算機に自分のクレジットカードを差し込む。時次郎には、この先まだまだお金がかかる。実に悩ましい問題だった。

「篠崎さんですか」

 支払明細書を睨みながら立ち尽くしていたら、病院スタッフに声をかけられた。手にしていた書類を慌ててバッグに突っ込んで、「はい」と頷く。

「介護タクシーが東玄関に横づけされますので、そちらでお待ちください」

「かしこまりました」

 フロアマップで確認して、東玄関とやらへ向かう。正面玄関とは違い人の出入りが少なく、心なしか薄暗い。外に出てしまうと暑いので自動ドアの手前で待機していると、ストレッチャーのキャスターの音が聞こえてきた。

 近づいてくるスタッフに向かって、軽く会釈をする。大柄の時次郎にはサイズが合っていないらしく、ストレッチャーからわずかに踵がはみ出している。

 時次郎は、ぼんやりと目を開けていた。自分の置かれた状況が理解できていないらしく、眼球をきょろきょろと動かしている。転院の必要があることは前もって伝えておいたのだが、理解できなかったのだろう。

 その目がはたと止まり、明日美を捉えた。何度も面会を重ねたから、知っている。時次郎は明日美のことを、娘と認識していない。

 会っていなかった十年分、明日美が老けたせいかもしれない。娘がいることは覚えているようだが、目の前にいる明日美と結びつけることができずにいる。

「あうあ!」

 依然として、呂律が回らないままだ。「アンタ!」と、呼びかけたのだろうか。

 時次郎は明日美のことを、どうやらヘルパーかなにかだと思っている。週に一度洗濯物の受け渡しに行っていたから、顔は覚えられているのだ。

「みう、うえ! あああ、みう!」

 桁外れに大きな声で、訴えてくる。

「はい、大丈夫ですよ。落ち着いてくださいね」

ストレッチャーを取り囲むスタッフに宥められても、声が止むことはない。

「あ、介護タクシー来てますね。ご家族様はどうなさいます?」

「あとからタクシーで追いかけます」

「かしこまりました。では、お大事に」

 ストレッチャーが、自動ドアを抜けてゆく。介護タクシーへと移される間も、時次郎は「みう、うえ!」と喚いている。

 慣れていなければ、なんと言っているか聞き取れない。でも、明日美には分かる。面会に訪れるたび、しつこく同じ要求をされてきた。

 時次郎は、「水、くれ!」と言っているのだ。

 

 転院先での検査を終えて、時次郎は六人部屋の廊下側に落ち着いた。

 そこでも時次郎は、明日美に向かってしきりに「みう、みう!」と叫んでいた。

 嚥下能力が衰えているから、水分も栄養も経鼻チューブから流し込まれている。生命を維持するにはそれで問題ないのだろうが、経口で摂取していないとやはり、口や喉が渇くのだろう。水をくれと、切実に訴えてくる。

「周りの迷惑になるから、静かにして。お水は飲めないの」

「あのう、みう!」

「駄目だってば」

「おに!」